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CBCテレビ「ゴゴスマ」問題の根底にあるもの

毎日の事件を報道し、番組に出演しているコメンテーターが私見を述べるというのがワイドショーの定番ですが、出演者同士のバトルが大きな騒動になることもままあります。お互いの主義主張が違う中で、放送時間が限られている中で討論するわけですから、時には声が大きくなり、相手を罵倒することもこれまでのテレビの歴史の中では何度も起こってきました。

そんな騒動を引き起こす原因の一つとして、実は主演者同士をまるで闘犬の犬のようにけしかけてハプニング的にバトルを大きくして番組を注目させたいという番組制作側の決して表面には出さない意図というものがあると思います。そうした意図を暗黙のうちに了承し、騒動にならない程度のバトルを繰り広げるある種の「安全なトラブルメーカー」がこうした番組では重宝される傾向があるのですね。それこそ、テレビ朝日の今も続く名物番組である「朝まで生テレビ」の創世記のメンバー、映画監督の大島渚氏などはそうしたテレビ制作側の意図を汲み取って視聴者が寝落ちするのを見計らうように「バカヤロー!」と叫んだりすることは、松尾貴史さんがギャグにしたりしていました。

いわゆる「ヘイトスピーチ」をテレビのコメンテーターが行なうことについてはここでは書きませんが、同じCBCテレビで平日お昼に放送されている「ゴゴスマ」の騒動の一つとなっている東海大学教授の金慶珠氏と、タレントの東国原英夫氏との番組内での言い争い以上の罵倒については、その言動を謝罪した東国原英夫氏の言い訳の中に、喜怒哀楽の激しいキャラクターを演じるタレントと、そうしたキャラクターを出演させることで番組の注目を集めたい番組制作側との蜜月さというのが謝罪の態度にも表われていたような気がしました。

というのは、東国原英夫氏は自身の発言について謝罪したものの、その中で一定の言い訳も付けてきたのです。あらかじめ共演者の顔ぶれがわかっていて、金慶珠氏と共演する予定であることがわかっていれば、決して出演しなかったと発言した点について、事前に番組スタッフから渡された資料に記された出演者一覧の文字が「小さすぎて読めない!」とハズキルーペのCMのような制作サイドへの責任転嫁のような主張をしてきたのです。

個人的にはこの言い訳については、東国原英夫氏の番組サイドへの不信感から出たものではないかと思えます。これは想像でしかありませんが、小さなトラブルを望んでいるところもあるかも知れない番組制作側が、騒動が大きくなり東国原氏およびCBCへの批判が大きくなってくると、手のひらを返すような対応を東国原英夫氏に行なってきたのではないかと考えると、ちくっと番組スタッフに対しての批判を入れながら謝罪を行なった東国原氏の気持ちも少しはわかる気がするのです。

ただ、そのような番組の裏の顔を垣間見せるような言動を、テレビに映っている中でしてしまう人というのは、テレビ制作の側からすると「使いずらい」というイメージが大きくなってしまいます。今後、東国原氏のタレントとしての活動がどうなるかはわかりませんが、今のようにテレビに毎日出てお金を稼ぎたいなら主義主張よりもしっかり反省した体を装った方がいいわけです。

逆に言うと、全く問題を起こさないで適度に言いたいことを言っているようなタレントや文化人というのは、ほとんどテレビ制作側の犬のように、まさに闘犬の犬のようにテレビ画面の中で動かされているという風に捉えた方がいいということでしょう。好き勝手をやっているようでいても決して暴言を吐かないあの人この人というのは多くの人の頭に浮かぶのではないかと思うのですが、そういった人の出演する番組というのは総じて内容が乏しいものだということを今回の騒動は教えてくれたように思います。


タレント事務所がテレビに与える影響の限界

テレビには芸能の部門においても「タブー」というものが存在していて、それが2019年の6月から7月にかけて、「ジャニーズ事務所」や「吉本興業」において、普通にテレビを見ている一般視聴者にまでその内容が知られることになってしまいました。

元々特定の事務所に所属していたタレントが、円満に退社することができなくなった場合、今回名前の出た事務所に限らず、元の事務所が目に見えない形で事務所を出たタレントに直接ではなくテレビ番組に出られないように「あの人を出すならうちの所属タレントをテレビに出さない」というような形でいやがらせをすることはまず間違いなくあったのではないかと思います。具体的な例については、今話題になっている島田紳助さんがプロデュースした「羞恥心」という男性3名のアイドルグループにおいて、一気の面では一番だった? とも思える野久保直樹さんだけを私たちはテレビで見ることはできないでいます。つるの剛士さんや上地雄輔さんは普通にテレビに出ているのにどうしてなのでしょう。

その理由は野久保直樹さんが勝手に自分のブログで渡辺プロダクションからの独立を一方的に宣言したことと関係があると言われていますが、それまでの芸能活動について、あまり所属プロダクションから良い待遇を受けられない中、なりふり構わず潜水の日本記録を作るなど体を張ってテレビに出ていく中で、あまり所属プロダクションからサポートを受けていなかったと感じていたからかも知れません。

何事も多くの人間の所属する所には派閥というものがあり、プロダクション上層部に可愛がられれば優先的にテレビに出してもらえることもあり、逆の立場にいる人間というのはそれこそ体を張ってでもチャンスを掴みたいと必死になるわけですが、その努力が報われた時にはきちんと面倒を見てあげるようにすれば、野久保直樹さんもいきなりの独立宣言など出すこともなかったのではないかと今になって考えたりするのです。

今回の吉本興業の騒動は、当然雑誌FRIDAYで指摘された反社会的勢力にいる人からお金をもらって飲み会に出たタレントに否があることに間違いはありません。しかし社長の会見を見ると、もし所属タレントの中でも上層部からあまり良く思われていない人にとっては、突然のタレントの契約解除という会社の発表には、明日は我が身であると思えてしまうような会社の勢力図というものを、これもまた一般の視聴者に広く伝えてしまったというところがあります。

ちなみに、私は吉本興業社長の会見を「AbemaTV」での生中継で見ていました。ネット中継では延長し放題なので、たとえ吉本興業がテレビ局に圧力を掛けて地上波での放送を差し止められたとしても、ネット中継や現場で会見の内容を録画してYou Tubeに流すというような事は止められません。

その後のワイドショーでも明らかに現吉本上層部寄りの論評をするメディアと、芸人側に立つメディアとの差が目立ちますが、これもいかに事務所が圧力を掛けたとしても、現場で起こった事が広くネットで見られるようになってくると、ごまかしというのはなかなか効きません。逆にそうした事をわかっている人が増えたことにより、本来もっと糾弾されるはずの宮迫博之・田村亮というタレントに対するバッシングが少なくなり(会見の内容が評価された部分はあるでしょう)、吉本興業および上層部と深い関係を持つタレントの方に関心が向くことになってしまいました。

今後はある程度は膠着状態が続く可能性もありますが、そもそもの吉本バッシングの原因である「反社会的勢力との交遊」という点がさらに白日の元にさらされる可能性もなくはありません。

現在の吉本興業は政府から事業をもらっている関係もあって、それまでの暴力団との関係を断ち切るために現会長・社長のような「師匠を持たないタレント」のはしりとなったダウンタウンのマネージャー出身の人物を登用し、それまでの会社としての暴力団との付き合いを断とうと努力してきたと思うのですが、逆に切られた方にしては、「この恨み晴らさでおくべきか」という気持ちを持ち続けている人がいるかも知れません。この辺については、吉本興業がどのように反社会的勢力との関係を断ってきたのかわからないのではっきりとしたことは言えませんが、今回FRIDAYに出たような写真はもっとあり、そこに写っている人物は、現在「男気」を見せている人であるかも知れません。

悪い奴がお金を目的にしないで脅すようなことがあれば、お金や圧力を掛けての解決というのは期待できませんし、少なくともそうした吉本興業が表ざたにしたくない写真があったとしても、近いうちに一般のメディアに向けて流される可能性もあると見ます。そうした事に心当たりがある場合は、タレントも事務所も、正直に話をしてきちんと釈明をするということを徹底しないと、さらにとんでもない事になる場合も出てきます。

ただ、そうした最悪のシナリオは政治家が介入して納めるという手段もあるのですが、それも必ずしも吉本興業が思う通りに解決できるかどうかはわかりません。そもそもイメージがそこまで良くない吉本興業のために動く政治家が出てきたとしても対応を誤れば、自分の政治生命にも影響が出るかも知れないわけですから。

今回の騒動は、古い体質の芸能事務所が今まで好きなようにタレントを使って設けてきたツケが出てきたと個人的には考えています。きちんとツケを払い、謝るべきところはきちんと謝った上で再生への道を進んで欲しいと思っています。


タレント頼みの地域創生は危険

過去には様々な芸能界・スポーツ界の薬物依存による麻薬使用による逮捕劇がありましたが、今回音楽ユニット「電気グルーヴ」の構成員で、俳優・タレントとして幅広く活躍していたピエール瀧こと瀧正則容疑者の逮捕というのは、私自身が現在も静岡市在住だったこともあり、かなりびっくりしました。

電気グルーヴの活動で海外公演をしていた時に使用していたという第一報がありましたが、テレビ中心のタレント業だけでなく、音楽関係の仕事など幅広くこなしていただけに、薬物の誘惑はかなり多かったのだろうと推測します。ただそれにしても、これで現在放送中の大河ドラマの撮り直しになるでしょうし、地方番組としては異例とも言える人気のあった静岡朝日テレビ(テレビ朝日系列)の冠番組「ピエール瀧のしょんないTV」も打ち切りで、将来的にも復活の見込みは消えたと言えます。

日本のテレビというのは現在ほとんど東京や大阪という大都市圏のテレビ局の製作した番組を地方でも流すようになっています。視聴者の方もキー局制作の番組と比べてつまらないと見られがちな地方制作の番組よりも、東京のテレビ局の作った番組の方を見たいという声が挙がるほどです。それがNHKを含む東京キー局のテレビ放送をインターネットでそのまま再配信すると、地方局を見る人がいなくなる事が問題だとして、今だにインターネットによるテレビ放送というものは実現していません。

そんな中で、地方のテレビ局において、現状に危機感を覚えた地方局が、東京の局が作る番組よりも面白い番組を作りたいという目的であの手この手で地方独自の番組が作られていますが、正直言ってその多くはおせじにも好んで毎回見ようとは思えないものです。そんな中で、多くの地方局が行なっているのが、全国区のタレントやお笑い芸人を出演させて地元のお店のPRをさせようという番組の多さです。これは、地元のテレビ局の収益がその土地の小さな企業やお店の払ってくれる広告料によって一部成り立っているということから、しょうがない所もあるのですが、「お店や企業の紹介」というコンテンツを動かせない分、その番組は全国区にはなり得ないというジレンマも抱えることになります。地元の視聴者に見てもらうために、出演者を自局のアナウンサー以外に求め、全国区で知名度がある人に出演してもらうことで興味を引き付けるという、まるで東京発の東京ローカルの番組をなぞるような番組が大量に発生する傾向にあるものの、それらの番組はあくまで地方限定の番組になることが歯がゆくもあるでしょう。

そこで、地元限定の番組からもう一つ抜け出すための方法として、全国区で知名度のあるタレントという条件に加えて、地元出身の人を起用し、地元の話題を全国に拡散させる効果を狙った番組作りをするという方法があります。
しかし、まさに今回容疑者となったピエール瀧の冠番組「ピエール瀧のしょんないTV」がそのやり方で作られた番組と言うことで、これまで静岡発の全国に売れる番組という評価もあったのに、まさにバブルで消えた泡のようにテレビ局も番組のホームページの存在を消すなど、一気に状況は変わってしまいました。

このように、カリスマ的な人物ありきということで作られた番組というのは、ここまでのトラブルでなくても、メインの出演者が体調を崩して長期離脱なんていうことにでもなったらすぐに行き詰まってしまうことになりかねません。番組がうまく回っているうちは番組も作りやすく、人気も出ていいことずくめのようですが、今回のケースでもこれで静岡発の全国に向けたバラエティ番組が無くなってしまうことによる関係者の落胆は相当のものでしょう。

現在のテレビはたとえ東京キー局であっても有名なタレントを出してお店めぐりとか観光地のレポートをするような変わりばえのしないものばかりで、逆に有名なタレントを出すことのできないテレビ東京の番組に評価が与えられるような状況も一方ではあります。今後、地方局が全国に向けた番組を作るような場合、やはり安易に外から有名タレントを連れて来てその人の魅力による番組作りをするよりも、地方の何を全国に発信したいのかという、コンテンツについてじっくりと考えて出演者も全国的には知名度のない地元の人をスターに押し上げるくらいの心意気が欲しいものです。

地方局の全国区になった番組ということで言うと北海道HTBの「水曜どうでしょう」がありますが、この番組は大泉洋さんだけに依存しているわけではなく、TEAM NACSという劇団で活動しているメンバーが道内のTVバラエティに出演したことで徐々に北海道から全国に向けて浸透していきました。誰かにカリスマ的な影響力があるのではなく、メンバー一人一人の実力もあるので、たとえ一人が長期離脱したとしても番組自体が消えることもないでしょうし、お互いに協力し合っていくこともできます。さらに、道内から新たな人気者を生み出すような形での進化も期待することができます。

地元の視聴者としては、「ピエール瀧のしょんないTV」が休止することで木曜深夜の楽しみが減るのは寂しいですが、そういった状況を含めて受け取め、新たな展開を待ちたいと思います。このままでは東京のテレビ局と比べて地域のテレビ局発の情報は埋もれ、なかなか全国に浸透しなくなってしまうと思いますので、関係者の方には全国に向けた面白いバラエティを作る心意気をぜひ見せていただきたいと切に思います。


「ショッキングな映像」と意見の誘導の裏を読む

今も昔も、世論というのはちょっとしたきっかけで変わるもので、テレビに関連する事で言えば何らかの映像が世論を一つの方向に誘導する手段となり得ます。「映像は嘘を付かない」という考えがあって、テレビは巧みに映像を流し続けることによってある人物へのイメージを作り上げるようなところがあります。

この文章を書いている2018年9月現在、そうした一つの事例として出ていることがありました。オリンピックの女子体操候補選手がコーチによる自身への暴力によりコーチ資格無期限停止という裁定が重すぎるから、オリンピックまでにコーチが復帰できるようにして欲しいという訴えを出しました。さらにパワハラで特定の体操協会の理事夫妻の自分に対して行なわれた言動を告発したことで、当初のテレビでは理事夫妻へのバッシングという流れになったものの、ある一通の映像で筋目が変わってしまったという事がありました。

それは問題が起こった3年前に撮られたと思われる、コーチによる記者会見を行なった選手に対する壮絶な「ビンタ」の動画です。テレビのコメンテーターは「暴力は絶対ダメだ」という思考回路により、それ以上の思考がストップされたかのように、態度を180度近くまで変えてしまうフジテレビの「バイキング」のような番組も出てきました。

私自身も実際の暴力的指導の現状を見せられるのはあまりいい気分ではないのですが、関係者が出してきた動画一つで騒動の論調が変わってしまう現状を見ていると、いかにテレビ局が、連日騒動の報道していながら、さらに競技自体の取材も行なっていながら肝心のトラブルの内幕に関する取材能力がないのかということを示してしまっているように思われます。「バイキング」の場合でも事前にフジテレビ側でしっかり取材をし、そこで得た核心を突く取材内容が番組司会者である坂上忍さんに伝えられていれば、この問題が報じられた早い段階から坂上さんもそうした番組の調べてきた事実関係も念頭に置いた上で議論がされていたでしょう。

今回の報道については、出てきたタイミングを考えてみるとむしろ映像を流す側の意図というものも感じられるところがあります。既に協会から無期限の活動停止処分を受けているコーチは、改めて映像を流されることで3年前の事と現在の事が分けられることなくバッシングを受けています。どれだけ謝っても過去に起こした罪は消えないというなら、日本の刑罰においてもそうした考えが適用されるべきですがそんなことはなく、それこそ死刑に値する罪を犯していない限りは「罪を償い反省する」というプロセスの中で更生の道は残されています。

ただ、テレビでの討論で関係者への対応を決めることはできませんし、この問題については当事者不在の中で言いたい事を色々喋って世論を誘導するよりも、客観的な証言を基にした取材結果の報道をしながら、第三者委員会の報告が出るまで待つのがテレビができることではないでしょうか。もっとも、テレビ局と今回の問題における特定の関係者がつながっていて、真実とは違う内容へ世論を一定の方向に誘導しようとしているようなことがあれば、その件についてはテレビ局自体が批判を受けることもあると思います。こんなことをわざわざ書くのは、ここで挙げたフジテレビだけではなく、テレビがそれこそ今回問題になった女子選手と同じように将来ある若いアスリートについて、極めて悪意あるイメージを植え付けた報道をした「前科」があるからです。

かつて日本のプロ野球において、読売巨人軍への入団を希望し「空白の1日」という当時の仕組みの裏を突いて突然に読売巨人軍への入団を発表した江川卓選手の記者会見でテレビ放送された江川卓選手の放った「そう興奮しないで下さい」という発言のシーンは繰り返し報道され、多くの野球ファンだけでなく一般の視聴者をも「江川=悪役」というイメージを主にテレビが植え付けました。

この一件は今のドラフト制度が変化していく一つの契機になっています。というのも元々ドラフト制度はお金のある球団がアマチュアの有望選手を買い漁ってチーム戦力の不均衡がひどくならないように契約金の上限を決め、さらに指名が競合したらくじ引きで交渉権を決めるものとして始まりました。ただ考えてみると、この制度では全てのプロ野球に入りたいと思う人間は全て「プロ野球機構」に属し、そこで入団する就職先が決められる(特定の球団による単独指名とくじによる交渉権獲得がそれにあたる)ような形になっています。それにしては江川選手の活躍した時代というのはプロ野球と言えば「読売巨人軍」というように、あからさまに「パ・リーグ」より「セ・リーグ」、「セ・リーグ」の中でも一番注目を浴びるのが「読売巨人軍」というような露骨なマスコミ報道全般に関わる贔屓があり、関東地区だけでなく地元に球団がない地域のテレビではプロ野球中継といえば「巨人対○○」というカードばかりでした。

それでもなお江川選手の読売巨人軍贔屓を批判するなら、それまでのテレビ・新聞の読売巨人軍偏重についても自己批判しなければならない部分もあるのではないかと私は考えます。とにかくそんな社会状況の中で江川選手の「空白の一日」が発生しました。ちなみに、この事件についての詳細はネットでも見られると思いますが、江川選手本人が当時の政権与党である自民党の代議士に相談して巨人への入団を何とか強行しようと事を進めたわけではありません。本人が大学を卒業した後アメリカへ留学するまでの行動を行なったことでもわかる通り、本人は自分の意思を示すことで、ドラフトの単独指名を願っていたと思います。しかしドラフト会議では必ず指名が重複すると考えた大人達は、あくまで江川さん本人がプロ野球界に入るなら巨人入りを希望しているということと、その投手としての類まれなる才能を知っている大人達が、様々な思惑を持って本人を説得し安心させるような説明をする中で起こした事であるという見方が普通です。空白の一日を使って巨人入団を発表したものの、それが関係者が思っている以上に世の中が騒ぎ出したことで、当時の大人たちは本人をテレビカメラの前に出して記者会見しないと収まらないということで、記者会見が開かれました。

普通、全国紙やキー局の記者をされている方なら、江川選手本人がこの法の網をくぐり抜けるような契約を一人で画策して行なったわけではないことは十分わかっていたでしょう。しかしその記者会見直前の状況というのは、まさにまだプロ野球に入る前の若い選手に向けて多くの記者が敵意を剥き出しにして殺伐な雰囲気を醸し出していたというのです。

そこで、記者からの怒号のような発言が飛びかう中、江川選手が冒頭に言った一言が「そう興奮しないで下さい」だったわけですが、当時のテレビはその前に記者が怒りの調子で詰め寄る場面はカットして江川選手が冷静さを失なった記者達をなだめた場面からの映像を繰り返し流しました。当然視聴者は記者会見前の状況がわからず江川選手の若い選手にあるにも関わらずかなり「ふてぶてしい態度を取る奴だ」となってしまい、バッシングへとつながっていくのです。

この事例においては当時の政界ともからみ、単なるスポーツ選手を利用して、様々なイデオロギーを持つマスメディアが自分達の主張を押し付けようとしたり、経済界にからむ人達がお金を儲けようとしたりと、そんな大人達に江川卓さんは利用され、その悪いイメージはまだ一部の人にとって払拭されていないわけで、重ね重ね当時のマスコミ、特に編集で都合の悪い部分を切って放送したテレビの罪について考えなければいけないところだと思います。

もちろん、視聴者の興味を引き付けたいというのがテレビ制作者の本音であるわけですが、視聴率を上げたいからそこまでの罪もないスポーツ選手のその後の人生を左右しかねない映像を繰り返し流し、世論の誘導まで図ることが本当にいいのでしょうか。女子体操のトラブルがテレビで語られる中では盛んに「アスリートファースト」という言葉が出てきます。そしてオリンピックになると必ず言われるのが、「メダリストは神様でも4位以下は虫ケラ扱い」とは言いすぎかも知れませんが、メダリストでなければあまり詳しく報道しないのもまたテレビなのです。

日本のテレビが今後も「メダリスト偏重報道」を続けるなら、まずは東京オリンピックを目指す有望な選手をいかにして能力を伸ばせるような環境を整えることが大事なのですが、そこでのテレビの役割は綿密な取材によって体操に関係する人々の中にくすぶっている大きな膿をあぶり出し、今もって女子の体操がオリンピックでメダルを取れない原因を追求することではないでしょうか。

ですから、いきなりショッキングな映像が出てきたり、番組コメンテーターがいきなり意見を変えたりするような時には、冷静にその裏に何があるのか? という風に考えたり、報道がアスリートの今までの努力を葬り去るようなものではないかとも考えてみましょう。素直にテレビ制作者の好む方向に世論を誘導されないようなテレビの見方ができれば、テレビの作り手側も考え方を変えざるを得ないでしょう。


あまりにも安易な企画のパクリは恥ずかしいだけ

先日、全国ネットでない地方の夕方のニュースを見ていたら、ニュースの中の企画物という感じで、地方で使われている鉄道路線を取材するものがありました。鉄道会社の協力を受け、路線を走る電車の中を撮影することのできる許可をいただいた上で、撮影クルーは何をしていたかというと、車内で旅行をしたり移動をするために電車に乗っている人にインタビューをして、

「この後、テレビカメラが付いて行っていいですか?」

とひたすら聞きまくっていたのでした。それでも、地方の民放局が地元で良く知られたタレントや、全国ネットでもお馴染みのタレントさんを入れることで、多少はうまく行くかも知れないと思うのですが、今回私が見たのは地方のNHK制作の企画だったので、撮影ディレクターも誰だかわからない若い男性でした。

一般に「NHKは田舎に強い」とは言いますが、取材の1日目には密着取材を一件も行なうことができませんで、翌日ようやく密着できた方2人の様子を放送はしていましたが、かなりスケールの小さな「YOUは何しに日本へ?」(テレビ東京の人気番組)という感じで、本当に地元民として見ていて恥ずかしいような内容になっていました。

そもそも、NHKは皆さまの受信料によって運営されているので、全く密着できないまま1日を無駄に過ごす可能性のある企画を通すこと自体あまりいい気はしませんし、何よりみ放の人気バラエティの内容を丸パクリのような事をやってスタジオのキャスターも何も感じないのか? と思ってしまうのです。

もはや「NHKらしさ」などという言葉は死語であって、面白そうなら何をしてもいいとこんな企画を通してしまったのだとしたら、日本のテレビの未来はどうなってしまうのか心配になります。全国放送でないローカルにしか流れないから良いと考えているようだったら、NHKの職員は全国を異動して東京や大阪など全国で放送される番組を作るような部門になる可能性もあるのですから、今後ますますNHKの番組の質が落ちる可能性まで見えてしまったというのが正直なところです。

NHKの、しかもローカルニュース内で流すコーナーというのは民放と違ってあまりふざけたりできませんし、露骨な宣伝に繋がるようなことはできないなどハンデはありますが、その中でできることを探してきちんと見せるのが制作者の知恵の出しどころであり、それはローカル番組であってもないがしろにしてはいけないものだろうと思うのです。


昔のテレビ局の役割と今後のテレビ局の課題を西城秀樹の歌声とともに

歌手の西城秀樹さんが63才という年齢でお亡くなりになりました。昨日のお昼のバラエティで第一報があった後、さまざまなテレビでその訃報が流れました。多くの夜のニュースではトップ扱いであったということは、少なからず時代の流れをテレビの制作者も感じているからに他ならなかったのではなかったのでしょうか。

私の住んでいる静岡県では少し他の地域の方と違う思い入れがあります。同郷の漫画家のさくらももこさんもその思い出を「ちびまる子ちゃん」の中で形にしていますが、西城秀樹さんがデビューされた1972年から当時の静岡県にあるテレビ局の中の静岡放送が夏休みの時期に合わせたお祭りイベント「フェスタ静岡」を静岡市内の駿府城公園跡で開催していて出店なども出るのですが、オープンステージを作って当時のアイドルや歌手を呼んで入場無料で見せるということをやっていました。

その様子は改めて地元テレビで放送されるのですが、このオープンステージの常連として出演してくれたのが他ならぬ西城秀樹さんだったのです。今のように特定のアーティストのコンサートを見に行くということも地方都市ゆえのハンデというべきかあまりなかった当時、テレビ局のイベントとして無料でその姿を見せてくれる機会というのはそうあるものではありません。もちろん当時のテレビ局としてはそうしたイベントを行なうことにより多くの視聴者を稼ぎ、スポンサーを付けたいということはあったのでしょうが、当時のさくらももこさんのような子供は、ただただ毎年西城秀樹さんが来てくれるのが嬉しくて、多くの人波の中でほとんどその姿が見えなくても無理をして会場まで出向いたのです。それはまだテレビというものが多くの家庭の中で一家団らんで見られていた時代の話です。

こうしたさくらももこさんの経験があったかどうかはわかりませんが、後に西城秀樹さんはアニメ「ちびまる子ちゃん」のエンディングテーマとして「走れ正直者」を歌うことになります。「フェスタ静岡」を主催していた静岡放送(TBS系)とは違いフジテレビでアニメが放送されたのは微妙にイベントの内容をアニメでは紹介しずらかったということはあるでしょうが、西城秀樹さんにとっては単なる一地方での営業でしかなかった事が後年のヒット曲の題材になるというのもまたこれはテレビの力によるところが大きかったように思います。

ただ、ワイドショーやニュースでの西城秀樹さんの楽曲を紹介する時には仕方ないもののどうしても曲が一定のものに固まってしまい、もっと多くの曲が聴きたいという声に応えられないというのもまたこれは現代のテレビの限界であると思えてしまうわけです。

西城さんを悼む新聞のコラムを読んでいて個人的にもう一回聴きたくなった曲がありました。その追悼文は作曲家の小林亜星さんが書いたもので、ドラマ「寺内貫太郎一家」(TBS系)での共演が懐かしいですが、氏の西城さんに関する思い出の歌にちょっとぐっと来ました。小林さんが書いているのですから自作の曲について書いていたのですが、それはいわゆる歌謡曲ではないアニメ『∀ガンダム』のオープニング主題歌「ターンAターン」で、小林さんは西城さんに歌唱を指名し、西城さんも仕事の合間の強行スケジュールの中での収録となったものの、追悼文で「彼は(歌の世界を)完璧に理解して完璧に歌ってくれました」「音楽を通じて理解し合いました」「僕の作ったアニメの曲では一番だと思う」とまで書いています。

私もこんなに難しい曲を完璧に歌いこなす西城さんのすごさを以前から感じていましたが、追悼をしているどのテレビでも(私が見た範囲なのでもしかしてどこかのテレビ局が流しているようだったらすみません)この曲は出てきませんでした。

こうしたテレビでは出てこないものをどうしても見たいという場合、現代はインターネットというものがあるので、そちらの方から検索すればしっかりと西城秀樹さんの歌う「ターンAターン」がフルコーラスで聞けてしまうという現実があります。ただこの話は私が読んだ当日の新聞で見た話題だったので、もしかして『∀ガンダム』を放送したフジテレビだったらやってくれていたのかも知れませんね。

どちらにしても、テレビにはネット動画のように今見たいと思ったものをすぐに見ることができないという事があるわけで、その補完ということではありませんが、自局の番組を見ている人にとって他の情報番組やニュース内のコーナーと横並びにしない、テレビで発信できる情報を出すだけの力がこれからますます求められるのではないかという感じがするのです。恐らく今後は地上波やBSで追悼番組が放送されるとは思いますが、ぜひ『∀ガンダム』の映像とともに西城さんの歌声を流して欲しいものであります。


テレビ映りの良い「顔」について考える

2017年から2018年にかけて、特にテレビに出てくる人の「顔」について考えることが多くなりました。その象徴として挙げられるのが、冬期平昌オリンピックに突如出現した朝鮮民主主義人民共和国の「美女応援団」についての話題です。ここで大切なのは「美男」ではなく「美女」という女性であることと、限りなく「整形」ではない自然な美だと言われていることです。これは、お隣の韓国が誰でも整形して美しい顔を作っているということで、そうしたコンプレックスがあるということなのでしょう。

日本の芸能人でも整形の噂が絶えないタレントさんがいるのですが、今の日本のテレビの現状を見ると、そうした整形は悪でも何でもなく、テレビの前に登場するための準備事項の一つであると思うこともできます。なぜなら、韓流ブームで数多くのユニットが日本でもデビューした韓国のアイドルについて考えてみても、整形していることを前提にして画面の見栄えを考えた中で、世界戦略が功を奏しているという面もあるからです。

日本のテレビについても、醜いよりも綺麗な方がいいという事は決して表面では言われないものの、全国のテレビ局が採用しているアナウンサーや天気予報で出てくる気象予報士はほぼ例外なく男性でもイケメンと言われる人がほとんどで、現在のアナウンサーやテレビに登場する気象予報士の試験には顔の綺麗さというのがあるのではないかと疑ってしまうところもあります。

そんな美男美女の局関係者がMCとして登場するワイドショーで平昌オリンピックの美女応援団について批判的な論調で話を進めようとしてもあまり意味がありません。顔が美しい女性を多く集めて行動させれば多くの人々が熱狂するということは、すでに日本のアイドル界を見ても当り前の話で、しかも今回平昌を訪れた女性たちは歌や楽器のレッスンをして優秀な技量を持っている、いわばアジアでも例のないようなアイドルグループとしてもやっていけるポテンシャルを持っています。彼女らの所属する国家の都合によって利用されているということはあるにしても、人工的な美を作り出し世界戦略を持って売り込んで行こうとする隣国と、考え方自体にはそう違いがあるとは思えませんし、逆に「テレビは高解像度になるので顔が全てだ」と言ってくれた方がかえってすっきりするところはあります。

そんな風に考えてみると、例えば大相撲の貴乃花親方と八角理事長・春日野親方とついその風貌を比べてお互いの発言への感じ方が変わってしまう事があるのかとか、素人のカラオケバトル番組での注目を浴びる出場者が必ずしも歌唱力でなくその風貌でも審査されているのではないかと思う点も出てきたり、そうした流れが「キングオブコント」で「かまいたち」を差しおいて「にゃんこスター」がテレビの人気者として番組出演回数が増えたことと関係あるのかというような、テレビ映えする風貌が大事ということがいつの世でも議論の対象になるということはあるのです。

こうした評価というのは一見顔とは関係なさそうな政治やスポーツの世界でもあり、小泉進次郎さんがもしイケメンでなく都会的でもなければあそこまでの人気が出たかは疑問ですし、今回の平昌オリンピックでは「開会式の出場者一の美女」なんていうものを競技の実力と関係なく挙げているのがテレビのワイドショーなのですから、これからはテレビに出て多くのスポンサー料を獲得するために、若い頃から日本のアスリートや政治家を目指す人たちも本気で整形を考える方が、よりテレビに取り上げられて成功する可能性が出てくるのではないかとも考えられます。

また、本人にはそんなに意識することがなくても、同じ土俵に上がるライバルが美女やイケメンであった場合、その実力に開きがあればあるほど、自分が悪役的に見られてしまうというのは先代の貴乃花と北の湖との関係が証明しています。こうした考えを進めていくと、テレビを使って多くの人に自分の事を知ってもらいたいと思っている人は、早めにテレビ映りのよい顔を目指して整形も辞さないようなところまで考えておくべきなのかとも思ったりします。

ちなみに個人的には「顔」そのものが大事だと思って活動する「アイドル」や「美女応援団」が究極の美を求めてテレビ映りを良くする事が悪いことだとは思いませんが、直接顔の良さや美しさとは関係ない事で有名な方は、あくまでその仕事や技術で勝負すべきで、その魅力をわかってくれる人がいれば美男美女である必要はないと思っています。ただ、ここまで書いた通りテレビの解像度が4K8Kと増えてくる中、年齢の進行とともにテレビに出られない人が出たりするなど、バグルスの楽曲「ラジオスターの悲劇」そのままの現実が条件を広げて出てくるだろうと予想します。

だからこそ、テレビ制作者の中には「顔など関係なく最高のパフォーマンスを出してくれる人をテレビに出す」番組もわずかながら残していただける事を期待するのです。画一的な番組ばかりになり、テレビドラマでもお笑い芸人やミュージシャン以外の「非美形俳優」がなかなか出てこないというのは、少なくとも現実の社会を反映させたドラマではないことも確かでしょう。様々な価値感のある中で、最高のパフォーマンスを出す顔こそが美しいというような、テレビ映えする「顔」の基準そのものを変えてくれるような力技を持つテレビ制作者の出現を期待したいところです。


テレビは「ミッチー・サッチー論争」にどう決着を付けたのか

野村沙知代さんが急に亡くなったことで、ヤフーニュースのプッシュ通知を利用している人のところには10回ぐらい連続で野村沙知代さんの訃報が届いたそうで(ヤフーニュースのシステムのバグだとその後判明しました)、その通知を受けた方の多くは一体何事だということで騒ぎになったというニュースが報じられたりした今日この頃です。

日本ではお亡くなりになった人は「仏様」となるので、どんな人の訃報であっても生前にどんな事があったのか、特に悪い事がある場合は直接書いたり出したりしない風潮があります。個人攻撃はしなくとも、彼女がマスコミに登場して名前を売った当時、テレビは何をしてきたかということを素直に報じて、自らも至らない点があれば詫びることで、今後同じような人が出現したりしても同じような醜態を晒さなくて済むと思うのですが、今回はそんな事を考えながら書いていこうと思います。

今後、多くのワイドショーが過去の出来事のほとんどを美談にして、彼女の出した曲(というか普通に喋る声をそのまま一部ラップのようにして使っているある意味希少な楽曲)「SACH A BEAUTIFUL LADY」を流しながら紹介するだろうことも考えられますが、テレビというのはその実体がないということで、過去にさかのぼってまで、自己批判をするところまではさすがにできないかも知れません。まずは、改めてこの騒動について紹介しながらテレビによって作られた野村沙知代という人物についても調べてみることにしました。

まず、彼女の経歴について紹介していこうと思います。1932年(昭和7年)生まれということで、東京で育ちながらも戦争の影響で生まれ故郷の福島県白河市に疎開し、地元のミスコンで優勝したことをきっかけに東京へと戻りました。そこでの生活というのは自分の美しさというものを武器にして何とかしてビッグになろうとした野心の塊ではなかったかと、その後の人生をあくまで報道による内容だけでみても類推できますし、実際、必死になって浮上するチャンスを狙っていたのではないかと考えることができます。

後に「経歴詐称だ」と言われた件についても、何とかして自分を大きく見せようとする世渡りの方法の一つとして言っていたものが、いつの間にか独り歩きして固まってしまったものかも知れません。ただし、そうして作った「経歴」が後の人生の足かせともなり、それが元でテレビを通じてバッシングを受けることになるとは、当時の彼女にとっては想像もできないことだったでしょう。

彼女は結婚し、二人の息子を持った後で大きなチャンスに恵まれます。それが当時プロ野球パ・リーグの南海ホークスの選手兼監督だった野村克也氏との出会いでした。ここで書いておきたいことは、彼女はその時には野球の知識はなく、「野村克也」という名前を子供達に尋ね、有名な選手とわかるまでは全く知らなかったということです。このエピソードはご本人が生前テレビで語っていたことで、恐らくその「知らない」ということを武器にして当時奥さんがいた(もちろん彼女にも夫がいました)野村氏との関係を結ぶためにあれやこれやのアタックを仕掛けたろうというのは想像に難くありません。

いわばW不倫の略奪婚を仕掛けたということになるわけですが、男女の関係というのはいくら彼女が言い寄ったとしても野村氏の方が拒否すれば成り立つことはありません。しかし野村氏は彼女を受け入れたことで、誕生したのが「野村沙知代」という存在であったと言えるでしょう。後で南海ホークスの選手たちが反旗を翻し、野村氏が南海ホークスを追われる原因ともなった彼女のプロ野球の現場への介入というのは、それまで野球の事など全く知らない人間が何をとも言われる事になるのですが、縁を結んだ人との関係を利用して自分の事を大きく見せることというのが、彼女が東京に出てきてからの人生の目標であったとしたなら、ある意味当然の流れであるのかなと思える部分もあります。

あの三冠王でプロ野球を代表する選手であり監督である野村克也氏を意のままに操ることで周りの反応とそれに伴う彼女への対応も変わるところを感じたことが彼女自身の成功体験になり、その後の人生における行動様式(それが後にバッシングを受ける原因にもなっていくわけですが)が形作られていったように思います。

その後、今回紹介する「ミッチー・サッチー論争」に繋がるタレントとしての肩書を持つくらいにテレビに進出していくわけですが、そのきっかけは、野村克也氏との間に生まれた息子・野村克則氏(現在時代の登録名は「カツノリ」)さんのプロ野球入団が関わってきていると思います。先述の通り夫の監督する南海ホークスでは人事や戦術に口を出し、息子をプロ野球のドラフトにかかるだけの実力(当時入団したヤクルトの監督が野村克也さんでした)だったこともあり、どのように夫や息子に教育をほどこしたのか、世間の注目を集めたことで、彼女の夫に対する物言いや教育論についての考えに注目が集まったこともあったのでしょう。

フジテレビ「笑っていいとも!」のレギュラーからTBS「快傑熟女!心配ご無用」と、それまでの人生経験を基に視聴者の悩み相談に答え、気に入らない事があればそれをそのまま口に出してしまうところは過去に南海ホークスの選手や会社から非難された時と同じような感じもしますが、これは本当に何にでも使われる便利な言葉ですが「歯に衣着せぬ物言いが素晴しい」としてさらにテレビに進出するようになります。

ただ、このような人物がテレビに出始めるにあたって、注意しなければならなかった点があることを、この騒動に至る内容を時系列で見て行くと良くわかってきます。まず、自分をちやほやしてくれる人におもねって、逆に苦言を呈してくれる人や好意で芸能界のしきたりを教えてくれる人をないがしろにしてしまったことが、そのまま後になって災いとして返ってきてしまったということ。そして、常に攻撃的で相手との妥協なり形だけでも謝罪なりをテレビに向かってしなかったことも、想定外の状況を作り出した原因だと思われます。

まず、私が一番の失敗だと思ったのが、彼女が当時の新進党から誘われるままに1996年の衆議院選挙に出てしまったことです。日本の一部をのぞく政党は、自分の党に票を入れてもらうために、テレビで目立っている「タレント的な文化人」に立候補のお願いを立てることは今も変わらず行なっています。もし野村沙知代さんが選挙に出なければ、いわゆる「経歴詐称」と言われる問題は起こりませんでした。タレントの経歴ということなら、日頃から自分の事を大きく見せようとしてホラを吹いているくらいにしか思われなかったところ、選挙自体は落選したものの、政治状況の変化によって彼女が繰上げ当選して国会議員になってしまうと可能性が出てきたことで、女優の浅香光代さんがたまたま自分のラジオ出演時に、出演が最後になるからということで彼女の実名を挙げて批判したことがこの騒動の始まりでした。ラジオでの浅香さんの発言はそこまで騒動を起こそうとしたのではなく、ご自身がストレス発散をしたくらいの認識であり、そこまで覚悟を持って告発したのではなかったのではないかと思われます。

しかしそうした「騒動」を目を皿のようにして探し回っているのもまたテレビなのです。すぐさま浅香さんの元にワイドショーが取材に訪れ、視聴率を上げるために野村沙知代さんに関するバッシングをする先鋒になってくれとお願いいするような形で報道されたことで引くに引けなくなり、さらに多くの芸能人がこの騒動に参加し、毎日新しい事実(基本どうでもいいような事も多かったが、そこはテレビなのでそれらしく問題提起します)および新しい人物が登場し、この騒動はエスカレートしていきました。

この騒動に入り込もうとして「私も沙知代さんにはひどい目に遭った」と訴える人や、沙知代さんと浅香さんとの仲を取り持とうとして失敗してひどい目に遭った神田川俊郎さんのような方もいて、一時期は下手な連続ドラマより面白い側面もあったことも確かですが、いつ終わるともわからない騒動に参加すること自体、後の芸能活動をそれぞれの方が行なう点においては、あまり後にいい影響は出なかったのではないかと思えます。結局のところ、世間が注目して視聴率を上げたテレビの一人勝ちとも言えるような騒動だったのではないかと今となっては思えてきます。

どんなにお金持ちでも権力があったとしても、テレビに正面切って喧嘩をふっかけてもあまり意味がないのです。2017年には首相である安倍晋三氏の夫人である安倍昭恵氏へのバッシングが週刊誌やテレビを含めたマスコミ、そしてネットでも行なわれましたが、さすがの権力者であってもそうした声をさまざまな形で圧力を掛けて黙らせることは難しく、結局のところ昭恵夫人が公の場で釈明すら出来ない程でした。ちょっと有名になり一時期に注目されたくらいでは、正面切ってテレビとの闘いを挑むには弱すぎるわけで、もし自分がテレビに出て仕事をしたいと考えるなら、常に自分はテレビでどのように視聴者に見えているのかを気に掛けるようでないと、何かの拍子に自分のプライベートの件でバッシングされてタレントの座から転げ落ち、忘れ去られてしまうのがオチです。

ただ、こうした騒動を仕掛けて時間を空けてまた同じように、今度は別の人物をターゲットにして騒動を仕掛けるテレビについて、果たして当時の騒動についてのオトシマエを付けているのかと言われると、個人的に見ると過去の問題を解決しないまま来ているように感じてならないので、この機会を使ってテレビの問題についても指摘させていただきたいと思います。

これも2017年の今起こっていることですが、大相撲で横綱の日馬富士関(後日引退を発表)が同じモンゴル出身の貴ノ岩関に暴行をして怪我をさせた事件についてワイドショーは連日報道を繰り返し、テレビのコメンテーターは加害者側の非難よりも、全くマスコミの質問に答えない貴ノ岩関や師匠である貴乃花親方について苦言を呈する向きもあります。しかし、当時の「サッチー・ミッチー騒動」を見ていた人であれば、まともにテレビ局の突き出すマイクに何を答えてもテレビは視聴率を上げるためなら自分の意志とは違う方向に状況を持っていかれる可能性もあるということはわかり切っています。私は貴乃花親方や貴ノ岩関が当時者であるのに全くテレビに向かって口を開かない裏には、こうしたテレビの小ずるさから逃れようとするあまりの行動ではないかと見ています。

口から泡を吹きながら貴乃花親方や貴ノ岩関を攻撃する人たちは、特にそれがテレビの報道に関わっている人であればあるほど、あなた方は「サッチー・ミッチー論争」から何も学んでいないのではないかと言わざるを得ませんし、今後同じような「渦中の人」が生まれたとしても、全くテレビからは身を隠し、ブログでしか発信しないような人が増える事になるかも知れません。つまり、テレビが変わらなければこうした流れも変わらないわけです。今後テレビが野村沙知代さんについて報道する中で、過去に様々な騒動を煽った責任について言及する局があるかどうかを、個人的には注目して見ることにします。


ワイドショーによる松村邦洋さんのネタ潰しについて考える

ブログで一時の熱狂に過ぎないと思えるワイドショーの話題を扱うと、一年後あたりでも見返すと何を書いているのか誰もが忘れてしまっている可能性もあるので、本来はこうしたネタに触れるべきではないのかも知れませんが、今後も同じような状況が出てくる可能性はありますし、それがテレビの力だと言えはそのように考えられもすると思いますので、2017年11月あたりからずっと連日テレビのワイドショーを占拠しているように繰り広げられている、大相撲の横綱・日馬富士による貴乃花部屋の貴ノ岩関を飲み会の席で殴打して大怪我を負わせたと言われている事件の余波について考えてみたいと思います。

毎日新たな事件が起こる中において一つの話題が長く続くというのは、登場人物が多岐にわたり、議論の中心が別のところにずれて迷走することで扱う内容が増えるということが原因であり、どんどん「新事実」が報道されていくに従ってヒートアップしていくからと考えられます。この一連の報道についても、当初はモンゴルからやってきた関取衆の中だけの話であったのが、被害者側の直近の上司で暴行の事実を警察に告発した貴ノ岩関の所属する貴乃花親方(花田光司氏)について、相撲協会側の論理によるバッシングへと変化していっています。少なくとも貴乃花親方が過去にあった相撲部屋での暴力事件のように、直接ビール瓶で弟子を殴打するような話もなく、事実として貴乃花親方自身が逮捕されたとか容疑者になったのでもないのにです。

この文章を書いている段階ではまだ九州場所が終わっていないため、本場所終了後に貴乃花親方が口を開いたり警察による発表があるかも知れないので事実関係についてはっきりした事は言えませんが、日本のテレビというのは「事件告発者」に対して同情するよりもバッシングをする体質というものが変わっていないなと思います。

とりあえず、「新事実」としてワイドショーが伝えている内容の多くは、加害者や被害者本人が直接述べた事ではなく、いくら同胞の大先輩や親戚であっても、そうした人から記者が聞いたりネットの書き込みをなぞった伝聞情報であることに違いなく、必ずしも正確な情報とは断言できないのです。そうした前提なしに、伝聞情報を基にしてあーだこーだコメンテーターが言い合う内容がほとんどの朝のワイドショーで繰り広げられている光景というのは、見ている方も感覚が麻痺しかかっていると言えるかも知れません。

ワイドショーでは番組のかなりの時間を使って個人攻撃に費すなんてことは、犯罪者でもない人をなぜここまで悪く言えるのか? と個人的には思うのですが、ワイドショーに出演してテレビカメラの前に立つと、何らかの魔術にかかってしまって、テレビ局の意図するような発言しかできなくなるのがテレビの持つ内なる力だと言えない事もありません。もちろん、民放の場合はスポンサーへの配慮があってしかるべきなので、興行主としての日本相撲協会を悪く言う事は難しいかも知れませんが、それならこの事件については伝聞でない確かな情報が入らないうちは扱わないというのも一つの手段だと思うのですが。

何より今回の加害者非難から被害者側の貴乃花親方&貴ノ岩関へのバッシングを既成事実化することで、残念だと思うことがあります。それは、ものまね芸人の松村邦洋さんが「貴乃花部屋へ稽古を見に行った時の親方のマネ」という至極のネタを封印しなければならないことにつながってくると思うからです。

まだYouTubeを探せば出てくると思いますが、貴乃花親方は相撲関係者ではない松村さんには実に紳士的で優しい対応をするのですが、稽古中に気を抜いた貴ノ岩関については、態度を一変させて「オイ、貴ノ岩! 何やってんだ! 莫迦野郎!」「水飲むな!」などの厳しい言葉が浴びせられるというそのギャップが何より面白く、私自身も松村さんのものまねがあったことで貴ノ岩という関取の事を知ったということもあります。

もし今後、松村さんがこの一連のものまねをやったとしたら、テレビは放送しないでしょう。それは貴乃花親方と貴ノ岩関とのセットというのは、これまで紹介したワイドショーでのバッシングを想像させるからで、今後の状況によってはテレビが一つの芸を潰したと言われても仕方のない面があるように思います。

こうした芸の封印については、ものまね芸人で特定の人の真似だけで営業しているような方の場合はさらに大変です。例えば元プロ野球選手の清原和博氏のものまねを専門にやっている「リトル清原」さんのように、本人が不祥事を起こした事で本人とは同一人物でない単なるものまね芸人がテレビにすら呼ばれなくなってしまう事例もあるわけですが、逆にあえてテレビに呼ばれるというパターンもあります。それは、本人でないものまねであるということを逆手に取って、ニュース映像の本人にはできない「茶番」をテレビ上で演じてもらうために依頼するという場合です。

さすがにそうした依頼については断わってテレビ以外に活躍の場所を見付けながらリトル清原さんは活動していたそうですが、本人と似ているものの本人ではない芸人さんを騒動に乗じて演出の手段として使おうというような考え方は今までもテレビではありましたし、今後も同じような事例は出てくるでしょう。それでいて芸人さんの渾身のネタは決してテレビでは披露させないのもテレビ的なものであるのです。

こうした事は、何でも人々の興味ある事なら出して人々を食いつかせようとする「見せ物小屋」的な発想から来ているものだと思います。確かにそうした手法で多くの人がテレビに群がった時期もあったのかも知れませんが、今後ネットを含むテレビの多チャンネル化が現実のものとなり、見たくないものは見なくても別のチャンネルで充足できるようになれば、いくらワイドショーが外に向かって晒し者を作ったとしても、そこに人々は決して群がることもなくなるでしょう。

今回の騒動自体も、相撲など全く興味ない人にとってはどうでもいいことですが、この騒動の後で好きで見ていたものまね番組で披露できないタブーができたということになれば、そのタブーが付いて回らないところのチャンネル(今のところ地上波からBS→CS→ネット)に移っていくことになるかも知れません。そうなれば地上波放送を見たいと思う人が少しずつではありますが減っていくわけでしょう。地上波のテレビでは、視聴者が愛想をつかさないような配分で必要な事を中心に放送し、決して告発者をないがしろにせず、関係のないところまで自粛すべきでないと思いますが、恐らくここまで説明した状況は変わらないでしょう。かくしてさらにおぞましい侃々諤々の言いっ放しの番組が今後もたれ流されるわけです。逆に言うとそれこそがテレビの本質が行き着く先なのかも知れません。

(2018年12月23日追記)

上の文章を書いている時にも心配していた松村邦洋さんの元・貴乃花親方ネタですが、たまたま昨日2018年12月22日のNHK第一放送のラジオ、「DJ日本史」の中で「貴乃花親方退職」→「貴ノ岩暴力事件からの引退」を受けたネタを披露していました。どんなものかと言うと(全て一字一句同じではありません)、

「貴ノ岩の行なった暴力行為は決して許すことができません」
「今度貴ノ岩に会ったらぶっ飛ばしてやりますよ(^^;)」

という、外と内についての態度が違うというギャップが元・貴乃花親方にあることを大いに誇張してのネタなのですが、こうした試みをラジオとは言え松村さんが継続して披露していることにホッとするとともに、やはりテレビとラジオの媒体の違いによってできることも変わってくるということを再認識したということもあります。


舛添要一氏の行動からコメンテーターのあり方を考える(5)到達点を見際める

前回までの文章を書いていく中で、改めて舛添要一氏の経歴の変化について書いていくと、以下のようになります。見事に出世していく様子が見て取れるようになっています。

・東京大学法学部助手→東京大学教養学部政治学助教授(国際政治学者)→舛添政治経済研究所所長(東京都知事選出馬・落選)→参議院選挙・自民党比例区で当選・参議院議員→厚生労働大臣就任→自民党離党・新党改革代表へ→参議院議員退職→新党改革を離党→東京都知事選に無所属で立候補し当選→東京都知事辞職

東大の助教授として、さらに国際政治学者としてテレビに出る中で知名度を得、東京都知事選に出た時には失敗したものの、自民党から誘われて参議院議員として国会に進出し、大臣にまで上りつめました。このまま党内に留まり、中から執行部を批判しながら議員としてのステイタスを上げる手もありましたが、残念ながら今の自民党というか政界全体が世襲の風が吹き、まともな方法では大臣以上に成り上がるのは難しい事は確かです。

そんな思惑を持って国会議員退職後に東京都知事に当選し、別の方向からのし上がる方法について模索していた中で足元をすくわれてしまったというのが今までの流れですが、最終到達点を東京都知事として職務を全うするという道もあったのではないかと思います。ただ、その後の行動および結果を見てしまうと、自分は東京都知事で終わるような男ではない、自民党からの後ろ立ても得て、一時は総理大臣に一番近い男とも呼ばれたわけだから将来は総理大臣を狙おうと疑惑の渦中まで思っていたとしたら、かなり当時の状況把握をうまくされていなかったのだろうと思います。

さらに、数々の疑念を週刊誌報道からワイドショーにまでで明らかにされる中、BSフジの「プライムニュース」に生で出演した事でその後の自分の運命を、それまで自分の味方出会ったはずのテレビに裏切られる形で失脚への道の駆け出してしまいます。当時、自らがどう視聴者に映っているかというのを完全に見誤ってしまったのです。

舛添氏は番組司会社の反町理氏に疑惑について矢継ぎ早に質問され、その答えとして、「精査してお答えする」という回答を繰り返すばかりで、番組中に何回「精査」と言ったかという事が話題になる始末でした。恐らく、BS民放で多くの人が見ていないであろうと思って、自分はあくまでテレビコメンテーターとして成り立っていると誤った判断のままとにかくこの場から逃げる事しか考えていなかったと思われます。番組が生中継であったこともあり、その全てを見た視聴者が少なからずいたことも誤算だったろうと思います。

しかし、翌日の朝のワイドショーでフジテレビでは前夜のBSフジのVTRを舛添氏にとっては映して欲しくない所だけを編集して流したことで、その情けない逃げっぷりが明らかになってしまったのでした。この辺りは実にテレビ的な演出であり、もし自分がすでにテレビからすると影響力のある論客ではなく、おかしな言い訳しか言えないでいる「笑われる存在」に成り下がってしまいつつあることを理解できていたら、当初のBS出演の段階で自らの間違いについてきちんと謝罪をし、後日の定例会見へとつなげることで、あそこまでの批判が盛り上がることはなかったはずです。

これは責任ある立場の人間であればあるほど、自らの失態を隠し続けることで視聴する側の怒りはさらに増幅するような所があります。政治家が様々な失態を犯した後、すぐに記者会見をするか、いきなり「入院」をして数ヶ月公の場に出て来ないケースが有ったとして、炎上するのは圧倒的に後者の方だということからも明らかでしょう。様々な疑惑に対して何も答えず、新しい話題が出れば忘れられるだろうたタカをくくっているような人物については、週刊誌は追加特集を組み、常に新しい「疑惑」が湧き上がってくるような人物であればとにかく早く釈明しないと、テレビでも「新事実発覚!」という風に本人が出てくるまで報道は続き、今回の舛添氏のように全ての社会的地位を失なってしまう可能性もあります。

今回の舛添氏は最後の最後になって最も取ってはいけない行動を取ってしまったため、しばらくは四面楚歌の扱いではあったのですが、これだけ悪名が轟いてしまうと逆にテレビ局の方から、そんな状況で何を言うのだろうとの興味を出てくるのか番組に出て欲しいというオファーも来るようになるわけですから、テレビというものはげに恐ろしいものだと思う方もいることでしょう。

テレビと言っても番組は選ばれる部分はありますが、過去に覚せい剤使用で逮捕されたスポーツ選手でさえ、テレビのバラエティに出演して他人の覚せい剤事件について語っているということもあります。時の人といった場合は多少テレビの枠から外れているような人でもテレビに出られてしまうようなところはありますが、ただしちゃんとしたテレビ出演のルールを守って、テレビの枠に徐々に収まるように自身が変化していくことができれば、最初のテレビ出設を契機にしてテレビコメンテーターへの道を歩むことも不可能ではありません。

このように、テレビに出るための敷居は低いところはあるものの、常にテレビで自分の事がどのように映されているかということを考えて出演しないと、制作者や視聴者から拒否反応を受けて次からはお呼びが掛からなくなってしまうのもテレビなのです。時代の寵児ともてはやされていたとしても、車で事故を起こしたり、口がすべって怒らせてはいけない人を怒らせてしまっただけでテレビに出られなくなる危険があるということで、テレビに出ることで勝負したいと思っている方はなかなか大変だと思いますが、継続してテレビで顔を売ることで得られる効果もあるわけですから、将来テレビコメンテーターになりたいという方は是非舛添要一氏の行動を参考に自らの身の振り方を考えみるのも一興ではないかなと思います。

※ここまで書かせていただいた内容をリンクの形でまとめさせていただきました。興味のある方はリンク先からもご覧下さい。

(1)恥も外聞も関係なし
(2)ネットサポーターを作れ
(3)発言は大声で尺に収める
(4)常に「仮想敵」を作る
(5)到達点を見際める