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あまりにも安易な企画のパクリは恥ずかしいだけ

先日、全国ネットでない地方の夕方のニュースを見ていたら、ニュースの中の企画物という感じで、地方で使われている鉄道路線を取材するものがありました。鉄道会社の協力を受け、路線を走る電車の中を撮影することのできる許可をいただいた上で、撮影クルーは何をしていたかというと、車内で旅行をしたり移動をするために電車に乗っている人にインタビューをして、

「この後、テレビカメラが付いて行っていいですか?」

とひたすら聞きまくっていたのでした。それでも、地方の民放局が地元で良く知られたタレントや、全国ネットでもお馴染みのタレントさんを入れることで、多少はうまく行くかも知れないと思うのですが、今回私が見たのは地方のNHK制作の企画だったので、撮影ディレクターも誰だかわからない若い男性でした。

一般に「NHKは田舎に強い」とは言いますが、取材の1日目には密着取材を一件も行なうことができませんで、翌日ようやく密着できた方2人の様子を放送はしていましたが、かなりスケールの小さな「YOUは何しに日本へ?」(テレビ東京の人気番組)という感じで、本当に地元民として見ていて恥ずかしいような内容になっていました。

そもそも、NHKは皆さまの受信料によって運営されているので、全く密着できないまま1日を無駄に過ごす可能性のある企画を通すこと自体あまりいい気はしませんし、何よりみ放の人気バラエティの内容を丸パクリのような事をやってスタジオのキャスターも何も感じないのか? と思ってしまうのです。

もはや「NHKらしさ」などという言葉は死語であって、面白そうなら何をしてもいいとこんな企画を通してしまったのだとしたら、日本のテレビの未来はどうなってしまうのか心配になります。全国放送でないローカルにしか流れないから良いと考えているようだったら、NHKの職員は全国を異動して東京や大阪など全国で放送される番組を作るような部門になる可能性もあるのですから、今後ますますNHKの番組の質が落ちる可能性まで見えてしまったというのが正直なところです。

NHKの、しかもローカルニュース内で流すコーナーというのは民放と違ってあまりふざけたりできませんし、露骨な宣伝に繋がるようなことはできないなどハンデはありますが、その中でできることを探してきちんと見せるのが制作者の知恵の出しどころであり、それはローカル番組であってもないがしろにしてはいけないものだろうと思うのです。


「たかがテレビ」で何が悪いのか

毎日新聞8月8日の夕刊に載った放送作家でテレビ製作会社「ベイビー・プラネット」代表取締役社長のたむらようこ氏のコラム「窓辺から」で『「テレビ」とひとくくりにしないで』というコラムの題名が目に留まりました。

内容については、たむら氏が自分の母親と電話している中で「新しい話題に飛びついては、すぐに放り捨てるような番組の姿勢が嫌だ」と愚痴っていたときに「えっ? テレビってそんなもんやろ?」と言われたことがショックで、テレビを作っている人には様々な考えがある中で番組ができているという事を主張し、ひとくくりに「テレビなんて」と言ってくれるなと結んでいるのですが、これはテレビを見ている立場からするとそんな事を言われても……という気になってしまうのが正直なところです。

政治家や役人がが不祥事を起こせばテレビでその事を大きく伝えれば伝えるほど「今の政治家(役人)は」というひとくくりに考える人を増やすことにもつながり、テレビはいままでさんざんそんなことを繰り返してきています。そうしたテレビの特質をわきまえていながら自分たちだけはひとくくりにしないでというのは、ちょっと身内に甘すぎるのではないのかなと正直思ってしまいます。

さらに、テレビがひとくくりのイメージで見られがちな原因として考えられるのが、民放の場合はスポンサーや広告代理店、さらにNHKを含めてあるのが特定の大手芸能プロダクションに忖度し、出演者のキャスティングや内容に影響するのではないかと思われていることも原因のように思います。ただこれは、テレビが大きなショーウィンドーとして莫大な広告費が投入されてきたことの一つの結果であって、いくら高潔に自分はそうではないと言うテレビマンがいたとしても、その事実にはあらがえないのではないかと思います。

さらに調べていて幻滅したのが、たむら氏は単に企業が出す広告について明らかに一線を越えたと思われる、過去に大企業との露骨なタイアップで視聴者の消費行動をあおったことで問題になったフジテレビの「発掘!あるある大事典」の構成をしていた人物であることがわかったことでした。おそらくたむら氏のご母堂は、過去に娘がそんな番組の構成をやっていたことを知っていたので電話で正直にテレビについての感想を話しただけだと私は思うのです。

こういったことはテレビマンに限りません。様々な職種にはそれにつきまとうイメージが有るものの、中にはその誤解を解き、信頼されるように努力されるような人もいるでしょう。テレビ番組を作っているとつい簡単にメディアを使って自分のご意見を出張したくなるところだと思いますが、他の業種では自分の仕事をお客様に見せながら変わっていくしかないところもあります。そうしたやり方に習うなら、むしろ「たかがテレビ」と思われている中で、ちょっと違う切り口や内容の番組を作り、その番組が評価されることで十分ご自身の主張できるのではないかと思います。

テレビの番組を見せるだけでは心配だというなら、一ヶ月に一回でもいいですからテレビ番組のプロデューサーなどをテレビに出し、自分たちの作った番組について「この番組は失敗した」というような反省を糧にして新たな進歩を目指す自己批判番組でも放送すれば、もっとストレートに「テレビというだけでひとくくりにはできないテレビマンの真摯な気持ち」というものを伝えられるのではと思います。

さらに、今の時代なら会社のホームページでもテレビ番組を送り出す人間の想いというものは伝えられます。単に「今度こんな番組を作ったから見てね」ではなく、「この間放送された番組は自分の思いがほとんど伝えられなかったが、今回は期待して!」というような作り手の叫びとともに紹介される番組については、どのように反省点を生かした構成になっているのかということが興味が出てきますし、見たくもなると思います。「たかがテレビ」と言われても、その中にキラッと光るような場面、制作者の想いのようなものをこのブログで伝えていきたいと思っているので、魅力的だと作り手が思う番組を沢山放送してくれるよう願っています。


昔のテレビ局の役割と今後のテレビ局の課題を西城秀樹の歌声とともに

歌手の西城秀樹さんが63才という年齢でお亡くなりになりました。昨日のお昼のバラエティで第一報があった後、さまざまなテレビでその訃報が流れました。多くの夜のニュースではトップ扱いであったということは、少なからず時代の流れをテレビの制作者も感じているからに他ならなかったのではなかったのでしょうか。

私の住んでいる静岡県では少し他の地域の方と違う思い入れがあります。同郷の漫画家のさくらももこさんもその思い出を「ちびまる子ちゃん」の中で形にしていますが、西城秀樹さんがデビューされた1972年から当時の静岡県にあるテレビ局の中の静岡放送が夏休みの時期に合わせたお祭りイベント「フェスタ静岡」を静岡市内の駿府城公園跡で開催していて出店なども出るのですが、オープンステージを作って当時のアイドルや歌手を呼んで入場無料で見せるということをやっていました。

その様子は改めて地元テレビで放送されるのですが、このオープンステージの常連として出演してくれたのが他ならぬ西城秀樹さんだったのです。今のように特定のアーティストのコンサートを見に行くということも地方都市ゆえのハンデというべきかあまりなかった当時、テレビ局のイベントとして無料でその姿を見せてくれる機会というのはそうあるものではありません。もちろん当時のテレビ局としてはそうしたイベントを行なうことにより多くの視聴者を稼ぎ、スポンサーを付けたいということはあったのでしょうが、当時のさくらももこさんのような子供は、ただただ毎年西城秀樹さんが来てくれるのが嬉しくて、多くの人波の中でほとんどその姿が見えなくても無理をして会場まで出向いたのです。それはまだテレビというものが多くの家庭の中で一家団らんで見られていた時代の話です。

こうしたさくらももこさんの経験があったかどうかはわかりませんが、後に西城秀樹さんはアニメ「ちびまる子ちゃん」のエンディングテーマとして「走れ正直者」を歌うことになります。「フェスタ静岡」を主催していた静岡放送(TBS系)とは違いフジテレビでアニメが放送されたのは微妙にイベントの内容をアニメでは紹介しずらかったということはあるでしょうが、西城秀樹さんにとっては単なる一地方での営業でしかなかった事が後年のヒット曲の題材になるというのもまたこれはテレビの力によるところが大きかったように思います。

ただ、ワイドショーやニュースでの西城秀樹さんの楽曲を紹介する時には仕方ないもののどうしても曲が一定のものに固まってしまい、もっと多くの曲が聴きたいという声に応えられないというのもまたこれは現代のテレビの限界であると思えてしまうわけです。

西城さんを悼む新聞のコラムを読んでいて個人的にもう一回聴きたくなった曲がありました。その追悼文は作曲家の小林亜星さんが書いたもので、ドラマ「寺内貫太郎一家」(TBS系)での共演が懐かしいですが、氏の西城さんに関する思い出の歌にちょっとぐっと来ました。小林さんが書いているのですから自作の曲について書いていたのですが、それはいわゆる歌謡曲ではないアニメ『∀ガンダム』のオープニング主題歌「ターンAターン」で、小林さんは西城さんに歌唱を指名し、西城さんも仕事の合間の強行スケジュールの中での収録となったものの、追悼文で「彼は(歌の世界を)完璧に理解して完璧に歌ってくれました」「音楽を通じて理解し合いました」「僕の作ったアニメの曲では一番だと思う」とまで書いています。

私もこんなに難しい曲を完璧に歌いこなす西城さんのすごさを以前から感じていましたが、追悼をしているどのテレビでも(私が見た範囲なのでもしかしてどこかのテレビ局が流しているようだったらすみません)この曲は出てきませんでした。

こうしたテレビでは出てこないものをどうしても見たいという場合、現代はインターネットというものがあるので、そちらの方から検索すればしっかりと西城秀樹さんの歌う「ターンAターン」がフルコーラスで聞けてしまうという現実があります。ただこの話は私が読んだ当日の新聞で見た話題だったので、もしかして『∀ガンダム』を放送したフジテレビだったらやってくれていたのかも知れませんね。

どちらにしても、テレビにはネット動画のように今見たいと思ったものをすぐに見ることができないという事があるわけで、その補完ということではありませんが、自局の番組を見ている人にとって他の情報番組やニュース内のコーナーと横並びにしない、テレビで発信できる情報を出すだけの力がこれからますます求められるのではないかという感じがするのです。恐らく今後は地上波やBSで追悼番組が放送されるとは思いますが、ぜひ『∀ガンダム』の映像とともに西城さんの歌声を流して欲しいものであります。


テレビ映りの良い「顔」について考える

2017年から2018年にかけて、特にテレビに出てくる人の「顔」について考えることが多くなりました。その象徴として挙げられるのが、冬期平昌オリンピックに突如出現した朝鮮民主主義人民共和国の「美女応援団」についての話題です。ここで大切なのは「美男」ではなく「美女」という女性であることと、限りなく「整形」ではない自然な美だと言われていることです。これは、お隣の韓国が誰でも整形して美しい顔を作っているということで、そうしたコンプレックスがあるということなのでしょう。

日本の芸能人でも整形の噂が絶えないタレントさんがいるのですが、今の日本のテレビの現状を見ると、そうした整形は悪でも何でもなく、テレビの前に登場するための準備事項の一つであると思うこともできます。なぜなら、韓流ブームで数多くのユニットが日本でもデビューした韓国のアイドルについて考えてみても、整形していることを前提にして画面の見栄えを考えた中で、世界戦略が功を奏しているという面もあるからです。

日本のテレビについても、醜いよりも綺麗な方がいいという事は決して表面では言われないものの、全国のテレビ局が採用しているアナウンサーや天気予報で出てくる気象予報士はほぼ例外なく男性でもイケメンと言われる人がほとんどで、現在のアナウンサーやテレビに登場する気象予報士の試験には顔の綺麗さというのがあるのではないかと疑ってしまうところもあります。

そんな美男美女の局関係者がMCとして登場するワイドショーで平昌オリンピックの美女応援団について批判的な論調で話を進めようとしてもあまり意味がありません。顔が美しい女性を多く集めて行動させれば多くの人々が熱狂するということは、すでに日本のアイドル界を見ても当り前の話で、しかも今回平昌を訪れた女性たちは歌や楽器のレッスンをして優秀な技量を持っている、いわばアジアでも例のないようなアイドルグループとしてもやっていけるポテンシャルを持っています。彼女らの所属する国家の都合によって利用されているということはあるにしても、人工的な美を作り出し世界戦略を持って売り込んで行こうとする隣国と、考え方自体にはそう違いがあるとは思えませんし、逆に「テレビは高解像度になるので顔が全てだ」と言ってくれた方がかえってすっきりするところはあります。

そんな風に考えてみると、例えば大相撲の貴乃花親方と八角理事長・春日野親方とついその風貌を比べてお互いの発言への感じ方が変わってしまう事があるのかとか、素人のカラオケバトル番組での注目を浴びる出場者が必ずしも歌唱力でなくその風貌でも審査されているのではないかと思う点も出てきたり、そうした流れが「キングオブコント」で「かまいたち」を差しおいて「にゃんこスター」がテレビの人気者として番組出演回数が増えたことと関係あるのかというような、テレビ映えする風貌が大事ということがいつの世でも議論の対象になるということはあるのです。

こうした評価というのは一見顔とは関係なさそうな政治やスポーツの世界でもあり、小泉進次郎さんがもしイケメンでなく都会的でもなければあそこまでの人気が出たかは疑問ですし、今回の平昌オリンピックでは「開会式の出場者一の美女」なんていうものを競技の実力と関係なく挙げているのがテレビのワイドショーなのですから、これからはテレビに出て多くのスポンサー料を獲得するために、若い頃から日本のアスリートや政治家を目指す人たちも本気で整形を考える方が、よりテレビに取り上げられて成功する可能性が出てくるのではないかとも考えられます。

また、本人にはそんなに意識することがなくても、同じ土俵に上がるライバルが美女やイケメンであった場合、その実力に開きがあればあるほど、自分が悪役的に見られてしまうというのは先代の貴乃花と北の湖との関係が証明しています。こうした考えを進めていくと、テレビを使って多くの人に自分の事を知ってもらいたいと思っている人は、早めにテレビ映りのよい顔を目指して整形も辞さないようなところまで考えておくべきなのかとも思ったりします。

ちなみに個人的には「顔」そのものが大事だと思って活動する「アイドル」や「美女応援団」が究極の美を求めてテレビ映りを良くする事が悪いことだとは思いませんが、直接顔の良さや美しさとは関係ない事で有名な方は、あくまでその仕事や技術で勝負すべきで、その魅力をわかってくれる人がいれば美男美女である必要はないと思っています。ただ、ここまで書いた通りテレビの解像度が4K8Kと増えてくる中、年齢の進行とともにテレビに出られない人が出たりするなど、バグルスの楽曲「ラジオスターの悲劇」そのままの現実が条件を広げて出てくるだろうと予想します。

だからこそ、テレビ制作者の中には「顔など関係なく最高のパフォーマンスを出してくれる人をテレビに出す」番組もわずかながら残していただける事を期待するのです。画一的な番組ばかりになり、テレビドラマでもお笑い芸人やミュージシャン以外の「非美形俳優」がなかなか出てこないというのは、少なくとも現実の社会を反映させたドラマではないことも確かでしょう。様々な価値感のある中で、最高のパフォーマンスを出す顔こそが美しいというような、テレビ映えする「顔」の基準そのものを変えてくれるような力技を持つテレビ制作者の出現を期待したいところです。


日本のドラマは「確信犯」で満ちあふれている

のっけからテレビドラマではありませんが、ネット配信のアマゾンプライムビデオのオリジナルドラマ「チェイス」について、清水潔著「殺人犯はそこにいる/隠蔽された北関東連続幼女誘拐殺人事件」との類似性が指摘され、清水氏や出版元の新潮社には何の相談もないまま「チェイス」というドラマが作られたことがニュースになっています。

このブログではアマゾンプライムビデオのオリジナル作品について、主に吉本興業制作のバラエティ番組について感想を書いていますが、もはやテレビや映画だけが映像作品鑑賞の場とは言えない中、一気に加入者を増やすためのテコ入れとして、ドラマ制作の現場では細かな検証をすっ飛ばしたとか思えない形で仕事が進んでいることが予想されます。今回問題になったのは実際の事件に取材したノンフィクションであったので、もし多少のクレームが来ても、同じ事件に題材を取った作品であるので似てくるのは当り前だという言い訳で何とかなるとも思ったのかも知れませんが、もはやアマゾンプライムビデオはテレビで放送されるドラマと同じくらいの認知度を持っているということの裏返しでもあるということも今回の騒動は表しているように思います。

そういう流れの中で、天下のNHK朝ドラ「わろてんか」の1月25日放送分でまたNHK大阪放送局がやらかしてしまいました(^^;)。漫才師の横山エンタツ・花菱アチャコのモデルとして描かれている「キース」と「アサリ」の新しい漫才を作る過程の中で、どんな格好で寄席へ出るのかという思案の中、様々な小道具が出てくるのですが、支配人役の濱田岳にその中から「金太郎の前かけ」を当て、セリフで「ピタッと」「どんどん」と言わせるところは、当然auの格安SIM対策として出した「ピタッとプラン」一連のシリーズCMを連想させます。さらに花菱アチャコのモデルであるアサリを演じているのは、今はCMに登場していませんが、auの昔話シリーズの途中で一寸法師として出演していた前野朋哉さんなのですから、まさに確信犯的な演出だと言わざるを得ません。

まさかNHK大阪放送局はauの展開を行なっているKDDIにおける筆頭株主である京セラと何か関係あるのかとか、主演の葵わかなさんも関西の通信の雄であるケイ・オプティコムの運営する格安SIM(しかもサービス開始当初はauの回線を使うSIMカードのみの提供でした)を提供するmineoのイメージキャラクターをやっていたから起用されたのかとか、全く荒唐無稽な私の頭の中で考えただけの説もそれらしい話になってしまう恐さがあり、単に面白いからコラボしようというのは違う気もします。

確かにテレビで見掛けるいろんなものがつながってドラマも面白くなるということはあるでしょう。現代のテレビは民放であってもNHKから資料映像として朝ドラや大河ドラマの映像を借り、そのドラマに出演した役者さんを自局のドラマに出す中で、朝ドラとからめて自局の番宣に使うことはどのネット局でもありますので、持ちつ持たれつということはあるのかも知れませんが、でも今回のNHKの悪ノリはいただけません。

そもそも、このドラマを録っている中だったり、編集してチェックしている時に、これはあからさまにauという特定企業を見ている人に連想させるからまずいのではないかと口を挟む人はいなかったのでしょうか? もしそういう人たちも了解の上で流れたものだとしたら、もし私がauの競合している他社の人間だとしたら何らかの抗議をするように働きかけると思います。

一つ言えることは、今回のような番組をNHKが放送したことで、「日本の公共放送とは何か?」という問題を考える場合、ある程度企業活動の宣伝をしたり、他の民放局とのコラボレーションを行なってもいいということになると、NHKにも企業から圧力を掛けることができるという可能性を持つことになってしまいます。具体的な会社名や商品名さえ出さないからいいというくらいの判断しか上層部がしていないのなら、今後はかなり高度なサブリミナルコントロールが日本国中多数が見ているNHKのドラマを使って実行され、特定の企業の利益に寄与する可能性があることを関係者は肝に銘じるべきではないでしょうか。


テレビは「ミッチー・サッチー論争」にどう決着を付けたのか

野村沙知代さんが急に亡くなったことで、ヤフーニュースのプッシュ通知を利用している人のところには10回ぐらい連続で野村沙知代さんの訃報が届いたそうで(ヤフーニュースのシステムのバグだとその後判明しました)、その通知を受けた方の多くは一体何事だということで騒ぎになったというニュースが報じられたりした今日この頃です。

日本ではお亡くなりになった人は「仏様」となるので、どんな人の訃報であっても生前にどんな事があったのか、特に悪い事がある場合は直接書いたり出したりしない風潮があります。個人攻撃はしなくとも、彼女がマスコミに登場して名前を売った当時、テレビは何をしてきたかということを素直に報じて、自らも至らない点があれば詫びることで、今後同じような人が出現したりしても同じような醜態を晒さなくて済むと思うのですが、今回はそんな事を考えながら書いていこうと思います。

今後、多くのワイドショーが過去の出来事のほとんどを美談にして、彼女の出した曲(というか普通に喋る声をそのまま一部ラップのようにして使っているある意味希少な楽曲)「SACH A BEAUTIFUL LADY」を流しながら紹介するだろうことも考えられますが、テレビというのはその実体がないということで、過去にさかのぼってまで、自己批判をするところまではさすがにできないかも知れません。まずは、改めてこの騒動について紹介しながらテレビによって作られた野村沙知代という人物についても調べてみることにしました。

まず、彼女の経歴について紹介していこうと思います。1932年(昭和7年)生まれということで、東京で育ちながらも戦争の影響で生まれ故郷の福島県白河市に疎開し、地元のミスコンで優勝したことをきっかけに東京へと戻りました。そこでの生活というのは自分の美しさというものを武器にして何とかしてビッグになろうとした野心の塊ではなかったかと、その後の人生をあくまで報道による内容だけでみても類推できますし、実際、必死になって浮上するチャンスを狙っていたのではないかと考えることができます。

後に「経歴詐称だ」と言われた件についても、何とかして自分を大きく見せようとする世渡りの方法の一つとして言っていたものが、いつの間にか独り歩きして固まってしまったものかも知れません。ただし、そうして作った「経歴」が後の人生の足かせともなり、それが元でテレビを通じてバッシングを受けることになるとは、当時の彼女にとっては想像もできないことだったでしょう。

彼女は結婚し、二人の息子を持った後で大きなチャンスに恵まれます。それが当時プロ野球パ・リーグの南海ホークスの選手兼監督だった野村克也氏との出会いでした。ここで書いておきたいことは、彼女はその時には野球の知識はなく、「野村克也」という名前を子供達に尋ね、有名な選手とわかるまでは全く知らなかったということです。このエピソードはご本人が生前テレビで語っていたことで、恐らくその「知らない」ということを武器にして当時奥さんがいた(もちろん彼女にも夫がいました)野村氏との関係を結ぶためにあれやこれやのアタックを仕掛けたろうというのは想像に難くありません。

いわばW不倫の略奪婚を仕掛けたということになるわけですが、男女の関係というのはいくら彼女が言い寄ったとしても野村氏の方が拒否すれば成り立つことはありません。しかし野村氏は彼女を受け入れたことで、誕生したのが「野村沙知代」という存在であったと言えるでしょう。後で南海ホークスの選手たちが反旗を翻し、野村氏が南海ホークスを追われる原因ともなった彼女のプロ野球の現場への介入というのは、それまで野球の事など全く知らない人間が何をとも言われる事になるのですが、縁を結んだ人との関係を利用して自分の事を大きく見せることというのが、彼女が東京に出てきてからの人生の目標であったとしたなら、ある意味当然の流れであるのかなと思える部分もあります。

あの三冠王でプロ野球を代表する選手であり監督である野村克也氏を意のままに操ることで周りの反応とそれに伴う彼女への対応も変わるところを感じたことが彼女自身の成功体験になり、その後の人生における行動様式(それが後にバッシングを受ける原因にもなっていくわけですが)が形作られていったように思います。

その後、今回紹介する「ミッチー・サッチー論争」に繋がるタレントとしての肩書を持つくらいにテレビに進出していくわけですが、そのきっかけは、野村克也氏との間に生まれた息子・野村克則氏(現在時代の登録名は「カツノリ」)さんのプロ野球入団が関わってきていると思います。先述の通り夫の監督する南海ホークスでは人事や戦術に口を出し、息子をプロ野球のドラフトにかかるだけの実力(当時入団したヤクルトの監督が野村克也さんでした)だったこともあり、どのように夫や息子に教育をほどこしたのか、世間の注目を集めたことで、彼女の夫に対する物言いや教育論についての考えに注目が集まったこともあったのでしょう。

フジテレビ「笑っていいとも!」のレギュラーからTBS「快傑熟女!心配ご無用」と、それまでの人生経験を基に視聴者の悩み相談に答え、気に入らない事があればそれをそのまま口に出してしまうところは過去に南海ホークスの選手や会社から非難された時と同じような感じもしますが、これは本当に何にでも使われる便利な言葉ですが「歯に衣着せぬ物言いが素晴しい」としてさらにテレビに進出するようになります。

ただ、このような人物がテレビに出始めるにあたって、注意しなければならなかった点があることを、この騒動に至る内容を時系列で見て行くと良くわかってきます。まず、自分をちやほやしてくれる人におもねって、逆に苦言を呈してくれる人や好意で芸能界のしきたりを教えてくれる人をないがしろにしてしまったことが、そのまま後になって災いとして返ってきてしまったということ。そして、常に攻撃的で相手との妥協なり形だけでも謝罪なりをテレビに向かってしなかったことも、想定外の状況を作り出した原因だと思われます。

まず、私が一番の失敗だと思ったのが、彼女が当時の新進党から誘われるままに1996年の衆議院選挙に出てしまったことです。日本の一部をのぞく政党は、自分の党に票を入れてもらうために、テレビで目立っている「タレント的な文化人」に立候補のお願いを立てることは今も変わらず行なっています。もし野村沙知代さんが選挙に出なければ、いわゆる「経歴詐称」と言われる問題は起こりませんでした。タレントの経歴ということなら、日頃から自分の事を大きく見せようとしてホラを吹いているくらいにしか思われなかったところ、選挙自体は落選したものの、政治状況の変化によって彼女が繰上げ当選して国会議員になってしまうと可能性が出てきたことで、女優の浅香光代さんがたまたま自分のラジオ出演時に、出演が最後になるからということで彼女の実名を挙げて批判したことがこの騒動の始まりでした。ラジオでの浅香さんの発言はそこまで騒動を起こそうとしたのではなく、ご自身がストレス発散をしたくらいの認識であり、そこまで覚悟を持って告発したのではなかったのではないかと思われます。

しかしそうした「騒動」を目を皿のようにして探し回っているのもまたテレビなのです。すぐさま浅香さんの元にワイドショーが取材に訪れ、視聴率を上げるために野村沙知代さんに関するバッシングをする先鋒になってくれとお願いいするような形で報道されたことで引くに引けなくなり、さらに多くの芸能人がこの騒動に参加し、毎日新しい事実(基本どうでもいいような事も多かったが、そこはテレビなのでそれらしく問題提起します)および新しい人物が登場し、この騒動はエスカレートしていきました。

この騒動に入り込もうとして「私も沙知代さんにはひどい目に遭った」と訴える人や、沙知代さんと浅香さんとの仲を取り持とうとして失敗してひどい目に遭った神田川俊郎さんのような方もいて、一時期は下手な連続ドラマより面白い側面もあったことも確かですが、いつ終わるともわからない騒動に参加すること自体、後の芸能活動をそれぞれの方が行なう点においては、あまり後にいい影響は出なかったのではないかと思えます。結局のところ、世間が注目して視聴率を上げたテレビの一人勝ちとも言えるような騒動だったのではないかと今となっては思えてきます。

どんなにお金持ちでも権力があったとしても、テレビに正面切って喧嘩をふっかけてもあまり意味がないのです。2017年には首相である安倍晋三氏の夫人である安倍昭恵氏へのバッシングが週刊誌やテレビを含めたマスコミ、そしてネットでも行なわれましたが、さすがの権力者であってもそうした声をさまざまな形で圧力を掛けて黙らせることは難しく、結局のところ昭恵夫人が公の場で釈明すら出来ない程でした。ちょっと有名になり一時期に注目されたくらいでは、正面切ってテレビとの闘いを挑むには弱すぎるわけで、もし自分がテレビに出て仕事をしたいと考えるなら、常に自分はテレビでどのように視聴者に見えているのかを気に掛けるようでないと、何かの拍子に自分のプライベートの件でバッシングされてタレントの座から転げ落ち、忘れ去られてしまうのがオチです。

ただ、こうした騒動を仕掛けて時間を空けてまた同じように、今度は別の人物をターゲットにして騒動を仕掛けるテレビについて、果たして当時の騒動についてのオトシマエを付けているのかと言われると、個人的に見ると過去の問題を解決しないまま来ているように感じてならないので、この機会を使ってテレビの問題についても指摘させていただきたいと思います。

これも2017年の今起こっていることですが、大相撲で横綱の日馬富士関(後日引退を発表)が同じモンゴル出身の貴ノ岩関に暴行をして怪我をさせた事件についてワイドショーは連日報道を繰り返し、テレビのコメンテーターは加害者側の非難よりも、全くマスコミの質問に答えない貴ノ岩関や師匠である貴乃花親方について苦言を呈する向きもあります。しかし、当時の「サッチー・ミッチー騒動」を見ていた人であれば、まともにテレビ局の突き出すマイクに何を答えてもテレビは視聴率を上げるためなら自分の意志とは違う方向に状況を持っていかれる可能性もあるということはわかり切っています。私は貴乃花親方や貴ノ岩関が当時者であるのに全くテレビに向かって口を開かない裏には、こうしたテレビの小ずるさから逃れようとするあまりの行動ではないかと見ています。

口から泡を吹きながら貴乃花親方や貴ノ岩関を攻撃する人たちは、特にそれがテレビの報道に関わっている人であればあるほど、あなた方は「サッチー・ミッチー論争」から何も学んでいないのではないかと言わざるを得ませんし、今後同じような「渦中の人」が生まれたとしても、全くテレビからは身を隠し、ブログでしか発信しないような人が増える事になるかも知れません。つまり、テレビが変わらなければこうした流れも変わらないわけです。今後テレビが野村沙知代さんについて報道する中で、過去に様々な騒動を煽った責任について言及する局があるかどうかを、個人的には注目して見ることにします。


ワイドショーによる松村邦洋さんのネタ潰しについて考える

ブログで一時の熱狂に過ぎないと思えるワイドショーの話題を扱うと、一年後あたりでも見返すと何を書いているのか誰もが忘れてしまっている可能性もあるので、本来はこうしたネタに触れるべきではないのかも知れませんが、今後も同じような状況が出てくる可能性はありますし、それがテレビの力だと言えはそのように考えられもすると思いますので、2017年11月あたりからずっと連日テレビのワイドショーを占拠しているように繰り広げられている、大相撲の横綱・日馬富士による貴乃花部屋の貴ノ岩関を飲み会の席で殴打して大怪我を負わせたと言われている事件の余波について考えてみたいと思います。

毎日新たな事件が起こる中において一つの話題が長く続くというのは、登場人物が多岐にわたり、議論の中心が別のところにずれて迷走することで扱う内容が増えるということが原因であり、どんどん「新事実」が報道されていくに従ってヒートアップしていくからと考えられます。この一連の報道についても、当初はモンゴルからやってきた関取衆の中だけの話であったのが、被害者側の直近の上司で暴行の事実を警察に告発した貴ノ岩関の所属する貴乃花親方(花田光司氏)について、相撲協会側の論理によるバッシングへと変化していっています。少なくとも貴乃花親方が過去にあった相撲部屋での暴力事件のように、直接ビール瓶で弟子を殴打するような話もなく、事実として貴乃花親方自身が逮捕されたとか容疑者になったのでもないのにです。

この文章を書いている段階ではまだ九州場所が終わっていないため、本場所終了後に貴乃花親方が口を開いたり警察による発表があるかも知れないので事実関係についてはっきりした事は言えませんが、日本のテレビというのは「事件告発者」に対して同情するよりもバッシングをする体質というものが変わっていないなと思います。

とりあえず、「新事実」としてワイドショーが伝えている内容の多くは、加害者や被害者本人が直接述べた事ではなく、いくら同胞の大先輩や親戚であっても、そうした人から記者が聞いたりネットの書き込みをなぞった伝聞情報であることに違いなく、必ずしも正確な情報とは断言できないのです。そうした前提なしに、伝聞情報を基にしてあーだこーだコメンテーターが言い合う内容がほとんどの朝のワイドショーで繰り広げられている光景というのは、見ている方も感覚が麻痺しかかっていると言えるかも知れません。

ワイドショーでは番組のかなりの時間を使って個人攻撃に費すなんてことは、犯罪者でもない人をなぜここまで悪く言えるのか? と個人的には思うのですが、ワイドショーに出演してテレビカメラの前に立つと、何らかの魔術にかかってしまって、テレビ局の意図するような発言しかできなくなるのがテレビの持つ内なる力だと言えない事もありません。もちろん、民放の場合はスポンサーへの配慮があってしかるべきなので、興行主としての日本相撲協会を悪く言う事は難しいかも知れませんが、それならこの事件については伝聞でない確かな情報が入らないうちは扱わないというのも一つの手段だと思うのですが。

何より今回の加害者非難から被害者側の貴乃花親方&貴ノ岩関へのバッシングを既成事実化することで、残念だと思うことがあります。それは、ものまね芸人の松村邦洋さんが「貴乃花部屋へ稽古を見に行った時の親方のマネ」という至極のネタを封印しなければならないことにつながってくると思うからです。

まだYouTubeを探せば出てくると思いますが、貴乃花親方は相撲関係者ではない松村さんには実に紳士的で優しい対応をするのですが、稽古中に気を抜いた貴ノ岩関については、態度を一変させて「オイ、貴ノ岩! 何やってんだ! 莫迦野郎!」「水飲むな!」などの厳しい言葉が浴びせられるというそのギャップが何より面白く、私自身も松村さんのものまねがあったことで貴ノ岩という関取の事を知ったということもあります。

もし今後、松村さんがこの一連のものまねをやったとしたら、テレビは放送しないでしょう。それは貴乃花親方と貴ノ岩関とのセットというのは、これまで紹介したワイドショーでのバッシングを想像させるからで、今後の状況によってはテレビが一つの芸を潰したと言われても仕方のない面があるように思います。

こうした芸の封印については、ものまね芸人で特定の人の真似だけで営業しているような方の場合はさらに大変です。例えば元プロ野球選手の清原和博氏のものまねを専門にやっている「リトル清原」さんのように、本人が不祥事を起こした事で本人とは同一人物でない単なるものまね芸人がテレビにすら呼ばれなくなってしまう事例もあるわけですが、逆にあえてテレビに呼ばれるというパターンもあります。それは、本人でないものまねであるということを逆手に取って、ニュース映像の本人にはできない「茶番」をテレビ上で演じてもらうために依頼するという場合です。

さすがにそうした依頼については断わってテレビ以外に活躍の場所を見付けながらリトル清原さんは活動していたそうですが、本人と似ているものの本人ではない芸人さんを騒動に乗じて演出の手段として使おうというような考え方は今までもテレビではありましたし、今後も同じような事例は出てくるでしょう。それでいて芸人さんの渾身のネタは決してテレビでは披露させないのもテレビ的なものであるのです。

こうした事は、何でも人々の興味ある事なら出して人々を食いつかせようとする「見せ物小屋」的な発想から来ているものだと思います。確かにそうした手法で多くの人がテレビに群がった時期もあったのかも知れませんが、今後ネットを含むテレビの多チャンネル化が現実のものとなり、見たくないものは見なくても別のチャンネルで充足できるようになれば、いくらワイドショーが外に向かって晒し者を作ったとしても、そこに人々は決して群がることもなくなるでしょう。

今回の騒動自体も、相撲など全く興味ない人にとってはどうでもいいことですが、この騒動の後で好きで見ていたものまね番組で披露できないタブーができたということになれば、そのタブーが付いて回らないところのチャンネル(今のところ地上波からBS→CS→ネット)に移っていくことになるかも知れません。そうなれば地上波放送を見たいと思う人が少しずつではありますが減っていくわけでしょう。地上波のテレビでは、視聴者が愛想をつかさないような配分で必要な事を中心に放送し、決して告発者をないがしろにせず、関係のないところまで自粛すべきでないと思いますが、恐らくここまで説明した状況は変わらないでしょう。かくしてさらにおぞましい侃々諤々の言いっ放しの番組が今後もたれ流されるわけです。逆に言うとそれこそがテレビの本質が行き着く先なのかも知れません。

(2018年12月23日追記)

上の文章を書いている時にも心配していた松村邦洋さんの元・貴乃花親方ネタですが、たまたま昨日2018年12月22日のNHK第一放送のラジオ、「DJ日本史」の中で「貴乃花親方退職」→「貴ノ岩暴力事件からの引退」を受けたネタを披露していました。どんなものかと言うと(全て一字一句同じではありません)、

「貴ノ岩の行なった暴力行為は決して許すことができません」
「今度貴ノ岩に会ったらぶっ飛ばしてやりますよ(^^;)」

という、外と内についての態度が違うというギャップが元・貴乃花親方にあることを大いに誇張してのネタなのですが、こうした試みをラジオとは言え松村さんが継続して披露していることにホッとするとともに、やはりテレビとラジオの媒体の違いによってできることも変わってくるということを再認識したということもあります。


舛添要一氏の行動からコメンテーターのあり方を考える(5)到達点を見際める

前回までの文章を書いていく中で、改めて舛添要一氏の経歴の変化について書いていくと、以下のようになります。見事に出世していく様子が見て取れるようになっています。

・東京大学法学部助手→東京大学教養学部政治学助教授(国際政治学者)→舛添政治経済研究所所長(東京都知事選出馬・落選)→参議院選挙・自民党比例区で当選・参議院議員→厚生労働大臣就任→自民党離党・新党改革代表へ→参議院議員退職→新党改革を離党→東京都知事選に無所属で立候補し当選→東京都知事辞職

東大の助教授として、さらに国際政治学者としてテレビに出る中で知名度を得、東京都知事選に出た時には失敗したものの、自民党から誘われて参議院議員として国会に進出し、大臣にまで上りつめました。このまま党内に留まり、中から執行部を批判しながら議員としてのステイタスを上げる手もありましたが、残念ながら今の自民党というか政界全体が世襲の風が吹き、まともな方法では大臣以上に成り上がるのは難しい事は確かです。

そんな思惑を持って国会議員退職後に東京都知事に当選し、別の方向からのし上がる方法について模索していた中で足元をすくわれてしまったというのが今までの流れですが、最終到達点を東京都知事として職務を全うするという道もあったのではないかと思います。ただ、その後の行動および結果を見てしまうと、自分は東京都知事で終わるような男ではない、自民党からの後ろ立ても得て、一時は総理大臣に一番近い男とも呼ばれたわけだから将来は総理大臣を狙おうと疑惑の渦中まで思っていたとしたら、かなり当時の状況把握をうまくされていなかったのだろうと思います。

さらに、数々の疑念を週刊誌報道からワイドショーにまでで明らかにされる中、BSフジの「プライムニュース」に生で出演した事でその後の自分の運命を、それまで自分の味方出会ったはずのテレビに裏切られる形で失脚への道の駆け出してしまいます。当時、自らがどう視聴者に映っているかというのを完全に見誤ってしまったのです。

舛添氏は番組司会社の反町理氏に疑惑について矢継ぎ早に質問され、その答えとして、「精査してお答えする」という回答を繰り返すばかりで、番組中に何回「精査」と言ったかという事が話題になる始末でした。恐らく、BS民放で多くの人が見ていないであろうと思って、自分はあくまでテレビコメンテーターとして成り立っていると誤った判断のままとにかくこの場から逃げる事しか考えていなかったと思われます。番組が生中継であったこともあり、その全てを見た視聴者が少なからずいたことも誤算だったろうと思います。

しかし、翌日の朝のワイドショーでフジテレビでは前夜のBSフジのVTRを舛添氏にとっては映して欲しくない所だけを編集して流したことで、その情けない逃げっぷりが明らかになってしまったのでした。この辺りは実にテレビ的な演出であり、もし自分がすでにテレビからすると影響力のある論客ではなく、おかしな言い訳しか言えないでいる「笑われる存在」に成り下がってしまいつつあることを理解できていたら、当初のBS出演の段階で自らの間違いについてきちんと謝罪をし、後日の定例会見へとつなげることで、あそこまでの批判が盛り上がることはなかったはずです。

これは責任ある立場の人間であればあるほど、自らの失態を隠し続けることで視聴する側の怒りはさらに増幅するような所があります。政治家が様々な失態を犯した後、すぐに記者会見をするか、いきなり「入院」をして数ヶ月公の場に出て来ないケースが有ったとして、炎上するのは圧倒的に後者の方だということからも明らかでしょう。様々な疑惑に対して何も答えず、新しい話題が出れば忘れられるだろうたタカをくくっているような人物については、週刊誌は追加特集を組み、常に新しい「疑惑」が湧き上がってくるような人物であればとにかく早く釈明しないと、テレビでも「新事実発覚!」という風に本人が出てくるまで報道は続き、今回の舛添氏のように全ての社会的地位を失なってしまう可能性もあります。

今回の舛添氏は最後の最後になって最も取ってはいけない行動を取ってしまったため、しばらくは四面楚歌の扱いではあったのですが、これだけ悪名が轟いてしまうと逆にテレビ局の方から、そんな状況で何を言うのだろうとの興味を出てくるのか番組に出て欲しいというオファーも来るようになるわけですから、テレビというものはげに恐ろしいものだと思う方もいることでしょう。

テレビと言っても番組は選ばれる部分はありますが、過去に覚せい剤使用で逮捕されたスポーツ選手でさえ、テレビのバラエティに出演して他人の覚せい剤事件について語っているということもあります。時の人といった場合は多少テレビの枠から外れているような人でもテレビに出られてしまうようなところはありますが、ただしちゃんとしたテレビ出演のルールを守って、テレビの枠に徐々に収まるように自身が変化していくことができれば、最初のテレビ出設を契機にしてテレビコメンテーターへの道を歩むことも不可能ではありません。

このように、テレビに出るための敷居は低いところはあるものの、常にテレビで自分の事がどのように映されているかということを考えて出演しないと、制作者や視聴者から拒否反応を受けて次からはお呼びが掛からなくなってしまうのもテレビなのです。時代の寵児ともてはやされていたとしても、車で事故を起こしたり、口がすべって怒らせてはいけない人を怒らせてしまっただけでテレビに出られなくなる危険があるということで、テレビに出ることで勝負したいと思っている方はなかなか大変だと思いますが、継続してテレビで顔を売ることで得られる効果もあるわけですから、将来テレビコメンテーターになりたいという方は是非舛添要一氏の行動を参考に自らの身の振り方を考えみるのも一興ではないかなと思います。

※ここまで書かせていただいた内容をリンクの形でまとめさせていただきました。興味のある方はリンク先からもご覧下さい。

(1)恥も外聞も関係なし
(2)ネットサポーターを作れ
(3)発言は大声で尺に収める
(4)常に「仮想敵」を作る
(5)到達点を見際める


舛添要一氏の行動からコメンテーターのあり方を考える(4)常に「仮想敵」を作る

ここまでは、あくまで自説を的確にコメントで伝えるための方法について紹介してきましたが、さらに自らの発言に注目を集める方法について紹介しようと思います。これは、コメンテーターの発言だけに関わらず、SNSやブログの発言でも同じような事が言えるかと思いますが、悪い言い方をすると「炎上商法」を常に心掛けて発言することで自身の発言に注目を集め続けることができるという理論です。

例えば、その時期に世間で注目を集めた人物について批判をすることによって、Yahoo!ニュースに取り上げられるようになればしめたものです。自身の言動が世間の注目を浴びていることが一目でわかりますし、そうした意見について新たな論争が起こるようになれば、その発信源であるコメントにさらに注目が集まるのは必至です。

テレビ司会者や記者会見を開く場合には記者達から、自らの発信に端を発した「バトル」を演出することで、しばらくはその成り行きに注目を集めることもできるでしょう。これは、最近では舛添氏の専売特許ではなく、ポスト舛添としてコメンテーターの座を狙っていたり政界に進出したりされる方でも、あえて過激な発言をしたり、他人を挑発するような言動を取ることは見受けられますが、やはりこうしたやり方には効果があるなあとしみじみ感じてしまいます。

舛添氏は当時の左翼論客や、あえて思想的な背景を持たないながら左寄りの意見に流されているような人に向かっても厳しい物言いをし、自らの意見を堂々と主張するのですが、これも最近になってSNSを使ってネット上の反応を見たり、SNSで直接攻撃した事がネットニュースになってその詳細をテレビで説明するような逆転現象も起きています。ただ、こうした議論の主役になるためには、まず自分の存在が広く一般に知られていなくてはなりません。いわゆる「ネット上の有名人」ではインパクトが弱いので、まずはテレビコメンターとしてお茶の間に顔を売ってから行なう事で、ネット上の議論を有利に進めることも可能になるでしょう。

こうした「仮想敵」への攻撃を行なううちに、いわゆる「犬猿の仲」であると広く認知された相手を持つことができればさらにやりやすくなります。もしその相手のとバトルをテレビの中で見せられるとしたら、出演する番組について、多くの人の興味を引くことになるのは確かですそれが視聴率につながればなおいいでしょう。もし相手が同じ土俵に出て来ないという状況になっても、これは言わゆる「欠席裁判」になるので、一方的に自説を主張して、それでも相手が無視を決め込んだ場合には「完全論破した」とし、次の「仮想敵」を見付けてバトルを仕掛けるように進めていきます。

この「仮想敵」についても現在の日本をいろいろ見ていくと、必ずしも政権党である自民党や、首相の安倍晋三氏への圧倒的な選挙における支持はないものの、選挙結果は自民党と公明党が圧倒的に多数を取り、安倍晋三氏の一強体制についてはしばらくは揺るがない状況が続いています。そんな中で安定してバトルを繰り広げても安易に降板させられないためには、リベラル派、共産党叩きという左派叩きを基本にしながらも、あまりに強すぎる現政権をたしなめるような形で叩いてもそれほど文句を言われそうにない人物をやり玉に挙げて叩くという(^^;)、見ようによっては随分軟弱だと言われそうですが、言葉だけは勇ましく、自分こそ「正義の味方」であるという信念で自分が「悪」と認めた対象を退治するというスタンスでやって行くのがいいでしょう。

うまく行けば、首相にはなれないかも知れませんが、どこかの集団のリーダーくらいには収まることができるかも知れません。そうしてのし上がるには政治的な嗅覚が必要ですが、その点、東京都知事になるまでの舛添要一氏の行動には学ぶべき点が多くあると思います。

自らの母の介護した体験を演説することにより厚生労働大臣になり、当時の自民党の執行部の批判をしたりして、市井の人々から「次の総理になってもらいたい人」という評価を得ることもできましたし、知事選も一度敗れたものの、自民党を離党してから二度目の出馬で大勝し、東京ではもちろん、全国の政界にも影響力を与えるだけの存在になりました。

このまま知事としての任期を全うすることができれば本当にこれ以上ない立志伝中の人として後世に名が残ったと思うのですが、残念ながらそうならなかったのは皆さんがご存知の通りです。

一応、次回を最終回とする予定ですが、様々な野望や目標を持つ人がその目的を達成した時どこで満足するかということも大切な事ではないかと思います。私の場合はもちろんテレビコメンテーターになろうとする野望はなく(^^;)、外から自由にテレビを見て好き勝手に書いていることで十分満足しています。

※ここまで書かせていただいた内容をリンクの形でまとめさせていただきました。興味のある方はリンク先からもご覧下さい。

(1)恥も外聞も関係なし
(2)ネットサポーターを作れ
(3)発言は大声で尺に収める
(4)常に「仮想敵」を作る
(5)到達点を見際める


舛添要一氏の行動からコメンテーターのあり方を考える(3)発言は大声で尺に収める

この文章を書くにあたりまして、過去から現在までの「朝まで生テレビ!」のデータを見ると、舛添要一氏は右派の論客の中だけでなく、全ての出演者の中で比較してもこれまで96回という番組の最多出演記録を誇っているようです。それだけ番組に重宝されたのは、やはりテレビの中の発言についてある程度の説得力を持っていたということがあると思います。

テレビの討論で、自説を視聴者に印象付ける場合、どうしても「時間の問題」というものにつきあたるということがあります。そうした問題を解決するために「朝まで生テレビ!」は深夜から早朝までという当時の討論番組の長さから考えると、かなり思い切った形での長時間のプログラムになっているのですが、出演者が多いのと取りあつかうテーマがかなり突っ込んだものが多かったことから(天皇や宗教など当時はタブーと言われたものが多く取り上げられていました)、これだけ長時間のプログラムでも時間が足らず、さらに出演者の中には言いたい事がまるで言えないまま終了ということもありました。

そんな中で生放送の中、自説をテレビの視聴者に伝えるためにはどうすればいいかという事になりますが、私自身に示唆を与えてくれたのが「朝まで生テレビ!」に出ていた左派の論客で映画監督の大島渚氏の「バカヤロー」という怒りの発言でした。とにかくよく通る声で、深夜の放送のためつい見ながらウトウトしてしまう視聴者対策として行なっているのではないか? という都市伝説もありましたが、大きなよく通る声を出すということは、たとえそれがテレビの中だったとしてもやはりインパクトがあり、話題の中心として自身を認識させるにはこれ以上の方法ではないかと思わせてくれました。

相手が自分から見るとつまらない話をダラダラとしているところでは大声で割って入り、そこからコマーシャルに入るタイミングがそんなに時間がなかったとしても、自説のキーワード先に出しながら、とにかく早口でまくしたてるように主張することで、最後に視聴者の記憶に残る発言になることは確かです。さらに相手より大声を出した方がより自説を多くの人に認知させられるということは疑いの余地はないでしょう。

この法則を知っているテレビに出慣れた人と、初めてテレビに出てきて自説を何とか発言しようとする人がかけ合いになった場合は、かなり悲惨な結果になってしまいます。声が小さく何を言っているかわからないような人であえばなおさら大声で的確に要点を突く人の方に注目が集まり、録画番組なら全く自分の喋ったところが使われないということも起こり得ます。

また、番組が生放送の場合はとにかく視聴者に届く大声でまくし立てた方の勝ちですから、テレビに出る前にしっかりとトレーニングして腹から大きな声をはっきりと出せるようにしておくことが話の内容よりも大切ではないかと思います。

これは舛添氏に限ったことではないですが、コメンテーターとして活躍している方というのは男女関係なく、自分で言いたい事があったら司会者に何を言われようと最後まで大声で自分の意見をテレビカメラに向かってまくしたてることを基本にしているように感じます。そんな場合には相手の立場などかまっている暇はないでしょう。コメンテーター同士の議論になってしまった場合、どちから優勢であるかということは冷静に視聴者によって判断されてしまいますので、強気に出ることが大切だと言えるのではないでしょうか。

ただし、視聴者の中には双方が大声で言い合いになった場合にはそれこそお互いが何を言っているかわからないような状態で放送が終了してしまうように見えることもあり、本来はテレビで物を言うためには仕方ない事であるだけなのに、性格が独善的であると誤った判断をされてしまう恐れがあり、その事を自身に対する批判の材料に使われる可能性はあります。ただ、これもテレビで自説を述べるためには仕方ないところではあるので、SNSなどでフォローをしながら、自分の正当性を訴えていくことも必要になってくる場合も出てくるかも知れません。

※ここまで書かせていただいた内容をリンクの形でまとめさせていただきました。興味のある方はリンク先からもご覧下さい。

(1)恥も外聞も関係なし
(2)ネットサポーターを作れ
(3)発言は大声で尺に収める
(4)常に「仮想敵」を作る
(5)到達点を見際める